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名の力

 「わが弥陀は名をもって人々を救う」といわれるように、阿弥陀如来は、南無阿弥陀仏という名前・名号となって、人々を救う方法を発見されたのです。なぜ名前の仏になられたのか、名となるしか煩悩いっぱいの凡夫を救う方法がなかったのです。名の中に仏の功徳をすべて込めて、「われにまかせ、必ず救う」とよび続けていられるのです。ちょうど赤ちゃんが生まれたとき、お母さんが我が子に「お母さんですよ」とお母さんのすべての愛情をこめて呼びかけているのと同じです。もともと名前にはすごい力があるのです。人間生まれた時も、死ぬ時も名前しか呼びません。名の中にその人のすべてが込められています。名を呼ぶということは、大きな生きる力になります。槇原敬之さんの「remenber my name」という歌詞に「僕の名前を呼べば孤独は君に近づけない。君は心の中で僕の名前を大きな声で呼べばいい。もし君の心が悲しみの海の底に沈むなら、僕は腕利きのダイバーになってどんな深くへも見つけに行くよ」 またドリカムの「何度でも」という歌詞の中に、「何度でも何度でも何度でも立ち上がり呼ぶよ、君の名前声が涸れるまで」とあります。阿弥陀如来は、名の仏となって「何度でもわが名を呼んでくれ、いつもあなたと一緒だから。どんな時もあなたを支えるよ」とよび続けてくださっています。

at 16:24, 不死川 浄, -

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レットイットビーと念仏

 ビートルズの代表曲の一つである「レットイットビー」の歌詞を訳してみると「私がトラブルに巻き込まれ悩んでいるとき聖母マリアが私のところに来て、知恵ある言葉をささやいてくれた。レットイットビー(そのままでいい)」 私はこの歌詞を見たとき、念仏と同じだと思いました。念仏とは、阿弥陀仏が苦悩の有情を救うには、念仏になるしかないと見抜かれて、南無阿弥陀仏と我々によびかけているよび声です。南無阿弥陀仏とは、「そのままでいい」「われにまかせ」「決して見捨てない」という意味です。どこまでも苦悩している我々を認め、支え、救うという仏のよび声です。念仏とは仏の声を、真理の声を聞くことです。口で称えて耳で聞くのです。「レットイットビー」の歌詞はポールマッカトニーが悩んでいるとき書いたそうです。きっと聖母マリアの声を聞いたのでしょう。この歌は名曲に乗って世界中に伝わっていきました。阿弥陀仏は我々を救うために、念仏となりいつもよび続けてくださっています。苦しいとき、悲しいとき、仏の声を称えて聞いてください。きっと心が安らぎます。

at 17:26, 不死川 浄, -

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宗教とは何か

 日本人の多くは、宗教とは人間の力を超えた仏や神にすがって、心の安らぎやご利益を得るものであると思っている人が多いです。正月の初詣やえべっさん、節分、受験時期には、多くの人が家内安全・商売繁盛・合格祈願を求めてお参りしています。しかし仏教は仏さまに願って、心の安らぎやご利益を得る教えではありません。仏教は外に救いを求める教えではありません。内なる救いを得ることを教えています。仏とは、目覚めた人・覚者と言われるように、自分の中での気づき、目覚めを促す教えです。仏の教えを通して、自分が問はれ、今まで見えなかったことが見え、気づかなかったことに気づいていくのです。仏さまが生きる目となり足となり生きる大きな支えとなってくださるのです。仏の願いや念仏は、今まで空しく気づかずに過ごして生きてきたが、仏さまによびさまされ、育てられ、私自身のいのちの願いに気づかされ、仏さまに生きる力、喜び、安心を与えられるのです。自分が問はれなかったら仏教ではないのです。

at 14:30, 不死川 浄, -

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素晴らしい言葉とは

 「素晴らしい言葉に出遇うということは、素晴らしい言葉にただ出遇うということではないんです。素晴らしい言葉というのは、どこまでも自分に気がつかなかった、その自分というものを明らかにしてくれる言葉、これが素晴らしい言葉なんです」という言葉に出遇いました。誰しも何度か素晴らしい言葉に出遇われたことでしょう。本や映画やカレンダーや先生や先輩の言葉の中で。あるスポーツ選手は「本の中で素晴らしい言葉に会ったとき、自分の欠点や足りないもの、今まで気づいてなかったことが明らかになり、これからの生きる方向が見つかった」と話していました。素晴らしい言葉に出遇うといことは、自分に出遇うことなんです。今まで気づいてなかった自分が明らかにされるのです。仏法に出遇うということも、仏さまの言葉を通して、自分に出遇うのです。自分を知るということは本当に難しいです。いつも私たちは自分中心の眼しか持っていないので、自分のことは自分ではわからないのです。仏さまの言葉に照らされ、自分の愚かさ、罪深さ、恥ずかしさ、醜さが知らされ、仏法が生きる大きな支えになるのです。「遇いがたくして、今遇うことを得たり」という言葉がありますが、何が遇い難いかというと、自分に遇うということがとても遇い難いのです。今まで自分を見失い迷い続けていた私が、今やっと真実が見つかり、私が私として生きていくことが出来るという喜びの告白です。

at 17:34, 不死川 浄, -

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縁次第

 私たちは縁次第でいろいろな姿を見せています。縁次第でころころ変わっています。どれが本当の自分か? 私たちは『歎異抄』に「さるべき業縁がもよほさば如何なる振る舞いもすべし」とあるように、縁次第でどんな行動をするかわからない存在です。また私たちの命も縁次第でどうなるかわかりません。いつ、何処で、どんな死に方をするかも縁次第です。事故や病気で助かるか助からないかも縁次第です。たまたま発見が早かったとか、いい医者に巡り合ったとか、飛行機に乗れ遅れたので助かったとか、歩いていたら上から鉄パイプが落ちてきたとか、気を付けていても縁次第でどうなるかわかりません。私たちが縁次第でいろいろな姿を見せているのは、もともと実体(我)がないからです。実体がないからころころ変わるのです。本来は無我なのです。私たちの命も私の命ではありません。無量の縁によりいま「私」という存在があるのです。実体がないのに、実体があるかのように、「私」「私」と我を張って生きているのです。私たちは根無し草のような存在です。だから縁次第で揺らいで迷ってしまうのです。思い通りにならなかったとき慌てふためき苦しむのです。そして苦しみを無くそうと救いを求めています。しかし実体がないということが私たちの大きな苦しみの原因になっているのです。自分の思い通りにならないと言って苦しむということは、思い上がりのほかないのです。思い通りにならなかったとき大きく心が揺れ動く「私」とは何なのかと、その「私」を問うてみることです。

at 17:29, 不死川 浄, -

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光寿無量

 また一つ年をいただき、み仏のみ名を聞けよの命なりけり。

  人間も自然も無常であり、すべて移り変わっています。永遠に変わらないこの世の真理です。

  人間はいつも真理に背いて生きているので、如来は念仏となりよび続けて下さっているのです。

 

   救われぬ身に沁みわたる弥陀の声。 称えても称えても、また称えても弥陀の声。

at 01:18, 不死川 浄, -

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おそだて

 今年も残りあとわずかになりました。今年も良い縁、悪い縁,さまざまなご縁に遇い,お育てをいただきました。まず4月の初めに、近くに住んでいた兄が最近姿を見せないので訪ねていくと、お風呂の中で亡くなっていました。本人は悪い所はないと言っていましたし、少しも死んだと思っていないでしょう。人生本当に何が起こるかわかりません。8月の盆過ぎにキューバに行ってきました。なんといってもカリブ海の海の青さは感動でした。キューバは貧しい国ですが、いまだにカストロ、ゲバラの革命の精神である「平等で人道的な社会の実現」を受け継いでいました。「隣人のために尽くす誇りは、高い所得を得るよりもはるかに大切だ」というゲバラの言葉を受け継いでいるある医師は「自分の生活を優先すると、人は過ちを犯す。もっと見返りがあるはずだと考えてしまうのです」と語った言葉がとても心に残っています。私たちは、いまの日本人は、まず自分の生活を優先し、まず私があってという自分中心の生き方をして、不都合なもの、嫌なもの、損なことを避け、目障りなものをを排除しています。まず私があってという考え方が身に沁みついていて、いのちはつながりの中で生かされていることを見失っています。日本人もゲバラの精神を学んでほしいと思いました。今年もいろいろなご縁に遇い、多くのことを教わり、お育てをいただきました。人生に余った生(余生)はありません。人生は死ぬまで育ちざかりです。来年もいろんなことがあるでしょう。良いことも、悪いことも。どれも私に与えられたいただきものです。しっかり受け止めていきましょう。

at 17:48, 不死川 浄, -

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すべての人の救い

 『観無量寿経』に阿闍世王が母である韋堤希夫人を殺害しようとした時、臣下である月光と耆婆が「母を殺すということは、これ旃陀羅なり」と諌めたとあります。親鸞聖人もご和讃に「耆婆・月光ねんごろに是旃陀羅とはじしめて・・・」と述べられています。旃陀羅とは、古代インドのカースト制度で四姓の身分外に置かれた最下層の身分をいい人間以下の存在として賎視してきました。この文言はどう見ても差別としかいいようがないです。それ故に削除や不拝読しようという意見もあります。しかし何故、平等の救い・すべての人を救うという仏法でこのような表現がなされたのであろうか。その意味を考えなければならない。差別ということの根深さを教えているように思います。私は第18願の「ただ五逆と誹謗正法を除く」の唯除の文言と同じ内容ではないかと思っています。すべての人を救うと言いながら除かれるのです。それは二つの罪の重きことを示して、十方衆生をもれなく救うと知らせてくださっています。私たちは日々仏に背き、気づかずに誹謗の罪を作っています。その私をも見捨てず必ず救うと誓っていられます。経典の中にも差別の表現があり、差別は本当に根深い問題です。そのことを示さんがためにも表現されているのではないかと思います。決して削除はしていけないと思います。この文言を通して差別の問題を学び、如来大悲のご恩を味あっていきたいです。

at 02:42, 不死川 浄, -

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いのちの正体

 大峯あきら先生に「花咲けば命一つということを」という俳句があります。命一つとは、無量寿如来を指しています。美しい桜の花を仰いでいたら「ああ、自分も桜の花も空を飛ぶ鳥もみんな同じ一つのいのちの中に融けて生かされているんだ」という感じがして、それを言おうとした句だそうです。私たちの命は自分のものではありません。私たちは不思議なご縁でこの世に生まれてきました。自分で作ったものは一つもありません。一週間何も飲まず食べなかったら生きていけません。自分の力で歳を重ね老いていくのではありません。何もしなくても、寝たきりになっても、おのずと老い死んでいきます。眠っている時でも、心臓や肺や腸は動いています。それを動かしているものは何か、いのちの正体は何か? 大峯先生は、「どんなもののいのちもみな同じ一つのいのちの中で、つまり如来さまのいのちの中で、いとなまれているわけです。個体のいのちというものはそれぞれが別々であるにもかかわらず、個体を超えたいのちの中にのみ生きることが出来るんです。小さな自分の個体の中だけでは、自分のいのちはは決して営まれないんです。私たちが勝手に自分のいのちは自分だけの所有物だと思いちがいしているんです」と述べられていました。

at 18:09, 不死川 浄, -

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煩悩あればこそ

 煩悩あればこそ、間違いなく救われるのです。いくら念仏を喜んでも、まだまだ娑婆には未練はあります。私も出来るなら80・90歳まで生きたいです。親鸞聖人も、「まだまだ娑婆は捨てがたく、安養の浄土は少しも恋しくない。それはどこまでも煩悩が盛んであるからです。しかし娑婆の縁尽きて、力なくして終わる時、必ず浄土へ参ることができるのです。阿弥陀さまは急いで浄土へ参りたき心なき煩悩具足の凡夫を必ず救うとはたらき続けてくださっているからです。それを思うにつけても、阿弥陀さまの大悲・大願はたのもしく、往生は間違いない」と教えてくださっています。煩悩あればこそ救われるのです。煩悩いっぱいの私たちを救うというところに、阿弥陀という仏さまが存在してくださっているのです。煩悩がなかったら救われないのです。私たちは死ぬまで煩悩いっぱいで、自我中心にしか生きれません。いつも仏さまに背いて生きています。その私たちを悲しみ、念仏となり「決して見捨てない、必ず救う」とよび続けてくださっているのです。「救われぬ身に、沁みわたる弥陀の声」「称えても、称えても、また称えても弥陀の声」です。

at 18:01, 不死川 浄, -

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