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あなたまかせの年の暮

 年の暮れが近づくと、良寛さんの「ともかくも、あなたまかせの年の暮」という言葉が思い出されます。この言葉は「後生の一大事は、その身を如来の前に投げ出して地獄なりとも極楽なりともあなたさまのおはからい次第です」と書かれた後の言葉です。生死の問題は人間のはからいではどうにもなりません。阿弥陀さまにまかすしかないのです。まかせると安心です。どうなろうと心配ありません。「これから先の人生は幸か不幸かしらねども、どちらになってもよろしいと確かな覚悟ができました」という心境です。「南無阿弥陀仏」は「我にまかせよ」という阿弥陀さまのよび声です。歳をとろうがとるまいが、病気になろうがなるまいが、いつ命が亡くなろうとも後生の心配をせずに、この身を阿弥陀さまにまかせて、お念仏の日暮しをさせていただくばかりです。

at 17:56, 不死川 浄, -

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みんないただきもの

 鈴木章子さんの『癌告知のあとで』という本の中で、「死にむかって 進んでいるのではない 今をもらって生きているのだ 今ゼロであって当然の私が 今生きている」とありました。私たちは死に向かって生きているのではありません。生と死は表裏一体で、生きつつあるということは死につつあるということです。いつ死んでもおかしくない私たちは、多くのご縁をいただいて、今をもらって生きているのです。生きていればいろいろなご縁に会います。良い縁、悪い縁、苦しい縁、悲しい縁、辛い縁、楽しい縁、腹が立つ縁さまざまです。みんないただきものなのです。心の動きも、行動も、生きるも死ぬも、縁次第でどうなるかわかりません。「さるべき業縁が催せば如何なる振る舞いもすべし」です。地震や不慮の事故でいつ死ぬかわかりません。それぞれご縁の中で生きるしかないのです。そのご縁をいただきものと受け止めるのです。引き受けるのです。今日は腹が立つご縁をいただいた、悲しいご縁をいただいた、苦しいご縁をいただいたと受け止めるとめるのです。仏さまから命をいただき、今生きているからそのご縁に会ったのです。受け止めると悲しみのご縁が喜びのご縁となります。逆縁を活かすことができるのです。                                                     

at 20:54, 不死川 浄, -

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もし浄土がなかったら

 もし浄土がなかったら、私たちの命はどこに行くのだろか? 行方不明になってしまう。流転輪廻を繰り返してしまう。だから世間では、良い所に行ってほしいと冥福を祈るのです。もし浄土がなかったら、人生の最後は真っ暗闇です。人生のゴールが明るいか、暗いかによって人生は大きく変わっていきます。現代人は死んだらしまいと思っている人が多いですが、死んだらしまいというのは虚しく寂しく死んでいくだけです。必ず死んでいく身です。安心して死んでいきたいです。それ故に阿弥陀さまが、いのちの故郷である浄土を教えてくださっているのです。もともと私という存在はありません。多くのご縁をいただいて私という存在があるのです。無量の寿(いのち)によって生かされているのです。この世のご縁が尽きれば、私を私たらしめてくださった無量寿の世界(浄土)へ帰らせてもらうのです。しかし人間は自我中心に生き、いのちの事実を見失っているので、阿弥陀さまが念仏となり、いつもよび続けてくださっているのです。浄土へ帰って安心するのではなく、帰る処が明確となったとき安心するのです。安心していのちの故郷である浄土へ帰って行きましょう。

at 15:02, 不死川 浄, -

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いつも一緒

 阿弥陀さまは私の中に同居してくださっているのでいつも一緒です。いつも私を支え導いてくださっています。私の煩悩が起こった時、阿弥陀さまは念仏となり私の口からナンマンダブツと出てくださり、私の煩悩を気づかせ、見つめさせ、コントロールしてくださいます。悲しい時や寂しい時「いつも一緒だよ」と念仏となってよびかけ安心を与えてくださいます。これから先の人生、どっちに転んでもいつも一緒です。阿弥陀さまが同居してくださっていることは、無量寿のいのち、永遠のいのちをいただいていることですからもう死ぬことはないのです。もちろん肉体は滅びますが、我がいのちは無量寿なりです。信心とは、阿弥陀さまが私の中に至り届き同居してくださることであり、それは無量寿のいのち、死なないいのちをいただくことです。有限な命を生きる私たちは、信心により阿弥陀仏なる無限のいのちを生きるのです。

at 17:39, 不死川 浄, -

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報恩講コンサート

 今年も篝火をたき、大変豪華で素晴らしいコンサートができました。今年で23回目です。よく続いているなと思います。出来る限り続けたいと願っています。今年は1部が演歌、2部がペルー音楽、3部がジャズでした。必ず3部構成にして、どんな人が聞いても楽しめるように、さまざまな音楽を提供しています。それぞれとても良かったです。みんな違ってみんないいです。4時まで法要があるので、音響・照明さんが大変です。朝からスタンバイして、法要が終わると急いで7名のスタッフがセッティング、それから順番にリハーサルです。7時に喚鐘の音で始まり、演歌歌手の浅田あつこさんの真宗宗歌でオープニング。休憩なしで最後に全員で恩徳讃を歌い9時半ごろ終了でした。それから役員さんたちが後片付けしてくださいました。戸をはずし大きな音を響かせていますが、近所から一切苦情なしです。ありがたいことです。みなさんのおかげでコンサートが続いています。遠近各地より200名以上の方が来てくださり来年も必ず来ますと言ってくださいました。来年はどんな音楽を提供しようかといろいろ案を練っています。

at 15:22, 不死川 浄, -

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ご縁のままに

 ジャズピアニスト佐山雅弘さんが昨日亡くなられました。最後のメッセージに「君の身体は、君の食べたもので出来ている」ように「僕という者は、僕と出会った人々で出来ているとしみじみ実感したことです」と述べられ、その出会いにありがとうと感謝されていました。 私という存在はもともとないのです。多くのご縁が集まって私になっているのです。多くのご縁で今の私がいるのです。これから縁次第でどうなるかわかりません。喜ぶのも、腹が立つのも、悲しむのもご縁です。喜ぶご縁に出会ったから喜ぶのです。腹が立つご縁に出会ったから腹が立つのです。腹が立つご縁に出会わなければ腹は立ちません。喜びも、悲しみも、苦しみもすべて縁次第です。そのご縁により育てられるのです。多くのご縁によっていただいているこの命も縁が尽きれば、もとに帰るのです。私を私たらしめてくださっている大きないのちの世界、いのちの故郷に帰るのです。佐山さんも、多くのご縁に、出会いに感謝されていました。安心していのちの故郷の帰られたことでしょう。合掌

at 17:10, 不死川 浄, -

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私の悲しみを知る

 ベルギーのアドリアン・ペール博士は「仏法が届いている人と届いていない人の違いは、私の悲しみが見えているかどうかです」と話されていました。いくら仏法を長年学んでも、聞いても、私の悲しみが知らされなければ、まだ仏法が届いていないのです。仏法が届かなければ生きる喜び生きる力となりません。理性や道徳では私の悲しみは見えません。仏の光に照らされなければ我が身の悲しみや恥ずかしさは見えないのです。親鸞聖人の一貫した立場は、どこまでも煩悩具足の凡夫であると我が身を悲しまれていました。私の悲しみが知らされなければ、仏さまの悲しみが身に響いてこないのです。悲しみと悲しみの共感です。悲しみは悲しみを知る仏さまの悲しみに救われるのです。「大悲あるが故に生きるを得たり」です。私の悲しみを知ることは、目覚めです。救いです。「自分がかわいい、ただそれだけで生きてきた。それが深い悲しみとなったとき違った世界がひらけてきた」(浅田正作)

 

at 14:05, 不死川 浄, -

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煩悩とともに

 身を煩わし、心を悩ます煩悩は、浅ましいものです、恥ずかしいものです、悲しいものです。しかし私たちは煩悩が無くならないのです。どっぷり私たちに身についているから、煩悩具足の凡夫と言われています。縁次第で、怒りや愚痴や貪欲や思いあがりの煩悩が湧いてきます。不思議なことに私たちは煩悩一杯の凡夫であるにもかかわらず、なかなか自分の煩悩が見えないのです。他人の欠点はよく見えても、自分の欠点は見えないように、気づかないものです。それ故に仏さまが私たちの煩悩や悲しみを気づかせようとはたらいてくださっているのです。「仏法が届いている人と、届いていない人の違いは、私の悲しみが見えているかどうかである」「自分というものに光を当て気づかせてくださる、それ以外に宗教というものがあろうか」「煩悩具足の凡夫を救うことが仏さまの誓いです」。光なくして煩悩は見えないのです。そして煩悩があるから仏さまと出遇うことができるのです。煩悩は無くそうとしてはいけないのです。見えたらいいのです。無くそうとすればするほど苦しみ、もがくのです。煩悩とともに仏さまと歩むのです。もし煩悩が無くなれば、仏さまの用事は無くなるのです。仏さまと縁が切れるのです。仏さまはいつもこの煩悩にかかりあってくださっているから、仏さまに私の煩悩を見つめさせてもらって「はずかしい、おかげさま」と歩ませていただくのです。

at 01:54, 不死川 浄, -

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よび覚ます

 「念仏を称えるとは、阿弥陀如来が口から出てくださることです」 念仏とは阿弥陀如来のよび声です。凡夫の私たちを救うには、阿弥陀さま自身が声の仏となり、私たちの口から出て救うしかないと見抜かれたのです。凡夫の救いは無条件の救い、そのままの救いでなければ救われないのです。少しでも条件が付けば救われないことを見抜かれて、「南無阿弥陀仏」と声の仏になられたのです。私たちに「南無阿弥陀仏」と自らの名前を呼ばせて、私たちの心をよび覚ませ、安心を与えてくださるのです。凡夫の救いは「ただ念仏」しかないのです。私自身、不安なとき、慢心が起こったとき、我を張ったとき、人を比べ傷つけようとするとき、阿弥陀さまが私の口から出て、いつもよび覚ましてくださっています。「称名」すなわち阿弥陀さまの名を称えることは、いつもよび覚ましてくださる阿弥陀さまのよび声を聞くことです。

at 16:14, 不死川 浄, -

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私が称える前から

 苦しい時、困った時、辛い時、「助けてください」と念仏を称える人がいますが、阿弥陀さまは、苦しんでいる人をほっとけないから、「助けてください」と称えるより先に、その人の口から「助かってくれよ」「必ず助ける、まかせよ」とお出ましになっているのです。阿弥陀さまの方が先によび続けていられるのです。「私が申す念仏やけど 私でないがや 阿弥陀さまのおよび声や」(藤本はつ)「念仏とは私が仏をよぶ声ではなく 仏が私をよびたもう声」です。苦しい時私が仏に願うより前に、仏さまに願われているのです。私が称えていると思っていた念仏は、阿弥陀さまからのよび声なのです。「決して見捨てない」と阿弥陀さまが念仏となり私たちの口を通してよび続けていられるのです。苦しいければ苦しい時ほど、辛ければ辛い時ほど、阿弥陀さまはお出ましになってくださるのです。それが阿弥陀さまという仏さまなのです。念仏に生きるとは、自分の口から出る阿弥陀さまのよび声を聞いて生きていくのです。

at 01:33, 不死川 浄, -

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