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いのちの故郷へ

 最近姿を見せないから気になっていて、兄のアパートへ行ってみるとお風呂の中で亡くなっていた。72年の生涯でした。永遠のいのちの世界、両親の待ついのちの故郷へ帰って行きました。たぶんヒートシヨックでしょう。お風呂で亡くなる人は本当に多いです。年間19000人で交通事故死よりずっと多いそうです。念仏者は、いつ、どこで、どんな死に方をするか問題ないのですが、本人が一番無念であったでしょう。もう少しでインドへ行けるかもしれないという期待があったから。もう一度インドへ行かせてあげたかったです。インドへ行くために健康にも気を付けていたのに残念です。思えば大きな夢を追い続けた人生でした。砕かれても砕かれても少年のように夢を追い続け、私に夢を語っていました。「夢を持つんだね、夢で終わってもいいじゃないか、人生はそれだけ豊かになる」という言葉があるように、夢で終わった人生ですが豊かな人生だったと思います。「花びらは散っても花は散らない。形は滅びても人は死なぬ」金子大栄師の言葉ですが、いまこの言葉が無性に心に響きます。生きている時は世話ばかりかける兄でしたが、一生私の心に生き続けていることでしょう。「ご往生おめでとうございます」と送ってあげました。

at 20:19, 不死川 浄, -

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自分に執着しない

 自分に執着しない。自分に執われないようにしたいとつねに思っています。出来ないけれどそうありたいと願っています。自分に執着すればするほど、死ぬことが怖くなり、世間の評価が気になり、自分を見失うことになります。若い時から自意識過剰で、自分の話したこと、行動したこと、自分の姿に執われすぎていた。自分に執われるということは、それだけ他人の目や世間の評価を気にして、少しでも自分をよく見てもらおうと振る舞い、自分自身を見失い、自分を生きていなかった。人倫の嘲りが恥ずかしかったのです。そして問題はそういう自分に少しも気づいていなかったことです。仏法を通して少しづつ気づかしてもらうようになりました。いま念仏に遇い、あまり他人の目や世間の評価が気ならなくなりました。とても楽になりました。自分を生きているという喜びがあります。ありのままに生きたい。どんなに頑張ってもなるようにしかなりません。執着心は無くなることはないが、また自分に執着していたなと気づく私でありたいし、人倫の嘲りを恥ずかしくない人生を生きたいです。

at 15:00, 不死川 浄, -

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気づくということ

 気づくということは、自分で気づくのではない。必ず気づかしてくれるはたらきがあるから気づくのです。いろいろなご縁があって気づくのです。問題意識を持っていたりアンテナを張っていると、突然ハッと気づかせてもらうこともよくあります。念仏を称えることも、自分が称えるのではない。称えさせるはたらきがあるから称えるのです。自分の口から称えるのですが、阿弥陀如来のはたらきによって称えさせてもらっているのです。念仏を称えることは人間の行(仕事)ではなく仏さまの行(仕事)なのです。親鸞聖人は「非行非善なり」と厳しく教えられています。すなわち念仏を称えることは人間がする行でもなく善根でもないのです。『歎異抄』第一章に「念仏申さんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたもうなり」とあるように、念仏を称えようという思いの起こるとき、ただちに光明(ひかり)のうちに摂(おさ)め取って捨てられないというご利益をいただくのです。阿弥陀如来が、念仏となり「我が名を称えてくれ、必ず救う」とはたらき続けていられるのです。念仏を称えて生きていきましょう。

at 17:07, 不死川 浄, -

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余生という言葉

 定年後は余生という言葉をよく聞きますが、人生に余(あま)った生はない。余生という言葉は死語にしていいと思う。人生に余生はありません。年老いても一日一日を大事にしてほしいです。70歳にして初めて出会うこと、80歳にして気づくこと、90歳にしてわかることも有ります。人間は歳をとればとるほどいろいろなものを失ってきます。よく中高年は「失いざかり」と言われます。歯を失い、耳も聞こえにくくなり、眼も見えにくくなり、若さや体力も失い、家族をも失っていきます。それが老いるということです。しかし仏教の世界は死ぬまで「育ちざかり」なのです。仏さまに死ぬまで育てられるのです。仏さまのお育てに遇うのです。「歳をとることも喜びだ、今まで見えなかったことが少しづつ見えてくるから」といわれるように、いままで見えなかったことや気づかなかったことを知らされるのです。育てられるのです。老いていくことが円熟し、楽しめます。実際誰しも明日の命の保証もないのです。年老いても生かされている命を大切にし精一杯輝かして生きたいものです。

at 00:56, 不死川 浄, -

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最高の友と一緒

 念仏とは阿弥陀如来自身です。阿弥陀如来が南無阿弥陀仏になって、心のドアーを破り私の中に入り同居し、私の口から念仏となって出てくださっています。私は念仏に遇うとは、最高の友といつも一緒に生きることと思っています。いつでも、どこでも、どんな時も、死ぬ時もいつも一緒です。こんなに頼りになるものはありません。悲しい時は一緒に泣き、嬉しい時は一緒に喜び、迷っている時は導き、間違った時は厳しく叱り、死ぬ時も一緒ですから何の不安もありません。どんな状況になっても、思い通りにならなくても、失敗しても、早く死ぬことになっても、虚しく寂しく生きることが無くなります。蓮如上人は念仏に遇うことが人生の一番大事なこと(一大事)と教えてくださっています。樹木希林さんのように、老いても、病になっても、不自由な身になっても、面白く楽しく生きていくことが出来ます。悲しかったら、悔しかったら、辛かったら、苦しくなったら、念仏を称えてください。「いつも一緒だよ、どんな時でもあなたを支えるよ」と阿弥陀如来がよびかけてくださっています。

at 23:40, 不死川 浄, -

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ただ念仏のみぞまこと

「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもってそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」 この言葉は『歎異抄』の中の親鸞聖人の言葉です。何故念仏のみぞまことなのか、 念仏は人間の言葉ではありません。真理の言葉、仏の言葉です。色も形もない真理である法性法身が衆生救済のために方便法身である阿弥陀如来となり、阿弥陀如来が煩悩具足の凡夫を救うには、南無阿弥陀仏という名前の仏にならざるを得なかったのです。「念仏」でしか救われ難い煩悩具足の凡夫を救うことが出来ないと見抜かれたのです。念仏を称えるとは、阿弥陀如来の「我にまかせよ、必ず救う」との願いが、私たちの口からあふれ出てくださるのです。そこには一切の人間のはからいはありません。ただ念仏です。法然聖人が「極悪最下の衆生を救うためには、極善最上の法をもってしなければすくうことがでいない」と教えられているように、私たち凡夫が救われるには、ただ念仏のみぞまことである法にまかすしかないのです。

at 18:12, 不死川 浄, -

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何を聞くのか

「仏法は聴聞にきわまる」と言われるように、仏さまの教えを聞くことが大切なのですが、何を聞くのかというと、1.阿弥陀如来がなぜ南無阿弥陀仏の念仏になられたのか、それはどこまでも「この私を救うためであった」ということを聞くのです。1、いま私が称えている念仏は、阿弥陀如来の「必ず救う、我にまかせ」の願いが念仏となり私の口から出てくださっていることを聞くのです。1、私の命は私のものでなかった、無量寿に生かされている命であることを聞くのです。1、「私は死ぬのではない」、命終わると仏さまの国に「生まれていくのである」ということを聞くのです。この言葉を素直に受け取ることが出来るまで、繰り返し繰り返し聴聞を重ねて欲しいです。この言葉が心に届き身に染みてくると、安心して生き、安心して命終えていけます。

at 15:32, 不死川 浄, -

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思い通りにならない時こそ

 いま人生はご縁であるということを痛感しています。不思議なご縁でこの世に生まれ、多くのご縁により今まで生かされてきました。不思議なご縁で結婚し、子供や孫を授かりました。これからの人生も、どんな生き方どんな死に方をするのもご縁次第です。人生は思い通りにはいきません。生きていればどんなご縁に会うかわかりません。嬉しいご縁、悲しいご縁、苦しいご縁、いろんなご縁に会います。それを受け止めなければいけないのです。生きていれば別れや老いや病に必ず会います。良い縁も悪い縁も人生です。みんないただきものです。今日は悲しいご縁をいただいた、苦しいご縁をいただいたと受け止めましょう。ただ自分にとって悪いご縁をいただいた時、阿弥陀さまは念仏となって私たちの口からお出ましになってくださっているのです。苦しい時、悲しい時、思い通りにならない時にこそ、いつも念仏となって出てくださっているのです。なぜ阿弥陀さまが念仏になられたのか? 苦悩の有情を救うためです。念仏になるしか苦悩の有情を救うことが出来ないと見抜かれたのです。お念仏を称えながら、苦しみを乗り越えていきましょう。

at 17:31, 不死川 浄, -

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生と死の壁

 人間にとって、生と死の間には大きな壁があります。仏教に遇う、信心をいただくということは、その壁がなくなるということです。信心とは無量寿如(永遠のいのちの仏)が私の自我の壁を破り、私の中に入ってくださることですから、生と死の壁がなくなり、死ぬことが不安でなくなるのです。もちろん肉体はいつか無くなりますが、永遠のいのちの今を生きているのです。人間は自分の立場に固執していろいろな壁・垣根・殻・枠を作って争っています。男女、人種、地位、年齢、職業、政治、宗教など、壁や垣根や殻や枠を作って苦しんでいます。壁や殻を破る、垣根や枠を超えることが仏教の目指す道です。壁を作って自分を守ろうとしているのですが、逆に自分を追い込んでいるのです。生きる世界を狭くしているのです。人間は誰しも我が身が可愛いし、自意識、自分への執着がとても強いです。仏さまにまかせて、自分へのとらわれから離れて、もっと広い世界に出ていきましょう。

at 15:24, 不死川 浄, -

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宇宙の法則に従う

 仏教とは宇宙の法則(真理)に従って生きていこうという教えです。人間はこの法則に逆らうから苦しむのです。仏教とはお釈迦さまが作られたのではありません。この法則に目覚められ覚者(仏陀)となられたのです。人間は赤ちゃんの時は仏さまのような存在ですが、自我が芽生え、知恵・分別がつくと同時にこの法則に逆らい、自我中心に生きるようになり、思い通りにならなくなるので苦しむのです。自力ではどうしても自我・我執の無くならない私たちのために、真理の方から「宇宙の法則に従って生きよ」とのよび声がはたらいているのです。それが念仏です。念仏に生きるとは、宇宙の法則に従い、真理にまかすことなので、必ず仏となる身となるのです。

at 16:24, 不死川 浄, -

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