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考えないこと

 パスカルが、人間は「考える葦である」と言っているように、考える生き物ですが、苦しみに直面した時は、考えないことです。苦しい時、落ちこんでいる時は、冷静な判断が出来ません。自分勝手な考えしか浮かばないし、自己弁護、相手への批判、過去へのとらわれ、未来への不安や、さまざまな妄想が浮かんで、真実への気づきはできません。苦しい時考えると、ますます不安になり、考えれば考えるほどドツボにはまり、自分で自分の首を絞めることにもなります。しかし「考えるな」と言われても、いろいろと妄想が浮かんできます。そういう私たちに、いつも「ハカラウナ、マカセヨ」と真実の世界からのよびかけがあります。それが念仏です。人生なるようにしかなりません。どっちに転ぶかわかりませんが、どっちに転んでも大丈夫というものに遇えば安心です。苦しい時は、考えずに推移を見つめ、落ち着いたら、これからどう生きるべきかの「気づき」に、目覚めていくでしょう。

at 15:18, 不死川 浄, -

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喜び・悲しみ・苦しみも、無常

 この世は無常であり、常なるものは何もありません。すべて移り変わっているのです。永遠に変わらない真理です。生まれたからには必ず死にます。「時間よとまれ」ということはありえません。私たちの身体も一瞬一瞬変化しています。時代も刻々と変化しています。変化に対応していかなければ時代についていくことが出来ません。どんな幸せな家庭でもいつか必ず別れが来ます。人間はこの真理を正しく見ることが出来ないのです。何事も実体化してみて変化についていけず苦しむのです。人間関係も、怒りも腹立ちも、無常で、変化しています。自らの心を静かに見守っていけば、怒りは静まっていきます。怒り自身に実体などありません。喜んでいても、嫌なことに出会えば腹が立ちます。悲しみも、時がたてば徐々に薄れてきます。大きな悲しみに会い、なかなか立ち直ることが出いない時でも、悲しみから学び・気づくことがあれば、悲しみが喜びと変わることも有ります。喜び・悲しみ・苦しみも、無常で、実体などないことを知っているべきです。苦しみや怒りから早く立ち直ることが出来ます。

at 15:33, 不死川 浄, -

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人生の目的地をもつ

 私たちはお母さんのお腹からオギャーとこの世に生れてきました。生まれたからにはいつか必ず死ぬのですが、この命はどこに行くのでしょうか?人生の旅を終えてどこに帰って行くのでしょうか?生きとし生けるものの大切な問題です。わからなければ虚しく寂しく死んでいくのです。何処に行ったかわからないので冥福を祈るというのです。はからわず自然のままにまかすと、どんな川も海に帰るように、花や葉や木々が大地に帰るように、いま私たちを生かしている無量の寿(いのち)の世界に帰るのです。いのちとは、永遠に生きているのです。死によって肉体は無くなっても、いのちは永遠に生きているのです。お釈迦さまは私たちに、「彼岸を求めよ」「浄土を求めよ」と勧めてくださっています。それは浄土に生まれることが人生の目的地であるからです。娑婆の利害や対立の苦しみの世界を生き抜き、利害や対立を超えた、いのちが本当に安らぐ安養土であるからです。しかしまだまだ私たちは娑婆に未練があるので、すぐには行きたくないが、人生の目的地を持てば、いつどこで縁尽きようとも、安心して生き安心して命終えることが出来るのです。

at 02:43, 不死川 浄, -

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彼岸を求めよ

 『仏説無量寿経』の中で、釈尊は「度世を願ぜよ」と勧めてくださっています。度世(どせ)ということは、この世の世界を渡り浄土に往生することです。「度世を願ぜよ」とは、「彼岸を求めよ」「浄土を求めよ」ということです。それは人間世界の対立した二元論の世界から、対立を超えた一元論の世界を求めよということです。人間世界はどこまでも我中心で、善し悪し・敵味方・好き嫌い・上下・優劣の対立した世界に生きています。何が善で何が悪かは本当にはわかりません。つきつめてみると利害にとらわれた人間の心が根底にあり、その利己心を離れることが難しい私たちに、利害や対立を超えた彼岸の世界(浄土)を求めよと教えてくださっているのです。彼岸の世界を知らなければ、人間は対立した世界のままで虚しく寂しく死んでいくのです。我の世界を超えた仏さまの世界を、私たちの生きる据わり、拠り所としなければいけないことを示してくださっているのです。

at 02:29, 不死川 浄, -

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彼岸を求めよ

 『仏説無量寿経』の中で、釈尊は「度世を願ぜよ」と勧めてくださっています。度世(どせ)ということは、この世の世界を渡り浄土に往生することです。「度世を願ぜよ」とは、「彼岸を求めよ」「浄土を求めよ」ということです。それは人間世界の対立した二元論の世界から、対立を超えた一元論の世界を求めよということです。人間世界はどこまでも我中心で、善し悪し・敵味方・好き嫌い・上下・優劣の対立した世界に生きています。何が善で何が悪かは本当にはわかりません。つきつめてみると利害にとらわれた人間の心が根底にあり、その利己心を離れることが難しい私たちに、利害や対立を超えた彼岸の世界(浄土)を求めよと教えてくださっているのです。彼岸の世界を知らなければ、人間は対立した世界のままで虚しく寂しく死んでいくのです。我の世界を超えた仏さまの世界を、私たちの生きる据わり、拠り所としなければいけないことを示してくださっているのです。

at 02:29, 不死川 浄, -

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命はどこに行くのか

 著名人が亡くなると、テレビや新聞のマスコミ報道では決まって「天国へ行かれました」と報道しているのを目にします。いままで一度も「浄土に往生されました」「浄土へ帰られました」という報道を目にしたことはありません。日本人には天国という言葉が浸透して、浄土という言葉は少しも浸透していないということです。日本では浄土真宗の寺院が一番多いし、布教伝道にとても力を入れているのに伝わっていないのです。それほど浄土ということを伝えることが難しいのか、私たち僧侶の怠慢か。いままで映画やテレビドラマで人が亡くなると仏教で葬儀をしながら「天国へ」と放送していました。マスコミの影響はとても強いですのできちんと伝えて欲しい願っています。どんな川も、美しい清流の水も、汚れた川の水も、みな塩味である一味平等なる海へ帰ります。これは自然の道理です。仏教とは真理、自然の道理に従って生きていきましょうという教えです。私たちの命は自分のものではありません。無量の寿(いのち)に生かされている命です。娑婆の縁が尽きると、いま私を生かしてくれている一味平等なる無量寿の世界(浄土)へ帰るのです。これは自然の道理です。しかし人間は自我に執着し真理に背いて生きているので死が怖いのです。それ故に真理の方から念仏となり、「我にまかせよ」とよび続けてくださっているのです。仏のみ名を聞き、阿弥陀仏にまかせれば、自然に無量寿の世界である浄土に生まれるのです。

at 17:51, 不死川 浄, -

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念仏が出る

 念仏が私の口から出る。すごいことです。私の口から仏さまが出てくださるのです。なかなか出るものではありません。念仏がどこまでも我中心に生き、恥ずかしいことも言う私の口から現れてくださるのです。不思議です。嬉しいです。安心です。心が落ち着きます。私の口から出てくださるまでには、長い長いお育てがありました。私にお念仏を伝え、勧めててくださった方々、眼に見えない無量の寿(いのち)のはたらきのおかげです。自分勝手な念仏なら、いつでも言おうとすれば言えます。でもそこには何の安心も喜びもありません。しかし弥陀の回向の念仏は、阿弥陀如来自身が人間の本質を見抜いて、人間を救うには念仏になるしかないと気づかれ、念仏の中に如来の功徳をすべてこめて、私たちの口から出ようとはたらいてくださっているのです。でもなかなか出ません。疑いの心、自力の心、自我の壁が厚く、我の壁が破れなければ念仏は出ません。阿弥陀如来はけっして見捨てられません。いつでも・どこでも・どんな時でも我の壁を突き破り、私の口から出ようとされています。機が熟し念仏が出たということは、仏さまが我の壁をつき破り私の口から出てくださったということです。これからの人生、喜びも悲しみも阿弥陀さまとずっと一緒に生きるのです。それが念仏者の生き方です。

at 01:02, 不死川 浄, -

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ご利益とは

 大切な人が重い病気になった時、病気平癒を願って切実な思いで必死に祈願している姿や、我が子の病気回復を願って一生懸命お百度参りをしている姿には胸打たれます。じっとしてはいられず、せずにおれないのでしょう。出来るものなら治ってほしいと誰もが思うでしょう。しかし冷たいようですがどんなに必死に祈願しても、助かる時は助かるし、助からない時は助からないのです。助かる縁があれば助かるし、縁がなければ助からないのです。仏とは人間の願いを叶える存在ではありません。仏とは、真理に覚めた人(覚者)であり、仏教とは、真理に目覚めた仏の教えを学び、聞いていきましょうという教えです。仏とは人間の願いを叶える存在ではないが、大きな悲しみの心で、いつも私たちの悲しみや苦しみを見抜き、ともに悲しみ苦しんでくださり、必ず救わずにはおかないと、念仏となり「我にまかせよ、必ず救う」と叫び続けていられるのです。仏の願いが届くと、仏のよび声が聞こえると、どっちに転んでも、どんな状況になっても安心して生きぬくことが出来るのです。安心して生き、安心して死んでいける。それが本当のご利益です。

at 16:30, 不死川 浄, -

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ご利益とは

 大切な人が重い病気になった時、病気平癒を願って切実な思いで必死に祈願している姿や、我が子の病気回復を願って一生懸命お百度参りをしている姿には胸打たれます。じっとしてはいられず、せずにおれないのでしょう。出来るものなら治ってほしいと誰もが思うでしょう。しかし冷たいようですがどんなに必死に祈願しても、助かる時は助かるし、助からない時は助からないのです。助かる縁があれば助かるし、縁がなければ助からないのです。仏とは人間の願いを叶える存在ではありません。仏とは、真理に覚めた人(覚者)であり、仏教とは、真理に目覚めた仏の教えを学び、聞いていきましょうという教えです。仏とは人間の願いを叶える存在ではないが、大きな悲しみの心で、いつも私たちの悲しみや苦しみを見抜き、ともに悲しみ苦しんでくださり、必ず救わずにはおかないと、念仏となり「我にまかせよ、必ず救う」と叫び続けていられるのです。仏の願いが届くと、仏のよび声が聞こえると、どっちに転んでも、どんな状況になっても安心して生きぬくことが出来るのです。安心して生き、安心して死んでいける。それが本当のご利益です。

at 16:30, 不死川 浄, -

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第二の矢は受けず

 生きていれば必ず苦しみに会います。「人生は苦なり」と言われるように、仏教では生・老・病・死と、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦の四苦八苦を教えています。また一寸先は闇でいつどこで苦しみに会うかわかりません。誰にも避けられない苦しみは第一の矢を受けることです。第一の矢は誰でも受けます。問題は第二、第三の矢を受けないことです。多くの人は苦しみが生じると、その事実をそのまま引き受けることが出来ず、愚痴や怒りや我執に振り回され、苦しみを深めているのです。その状態では冷静な判断が出来ず、考えれば考えるほど苦しみの深みにはまって、逆に落ち込んでいくのです。それが第二、第三の矢を受けることです。苦しみが生じた時、考えないことです。計らわないことです。過去や未来にしがみつかないことです。そのままの事実を引き受け、その事実に気づくだけです。外側の苦しみはさまざまな縁によって起こるが、内側の苦しみは自分自身が作っているのです。身体は不自由になっても、心は不自由になってはいけないのです。身体は苦しんでも、心は苦しんではいけないのです。心がリラックスできれば、第二の矢を受けずに、冷静にこれからどう生きるかを考えられるのです。

at 16:09, 不死川 浄, -

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