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生と死の壁

 人間にとって、生と死の間には大きな壁があります。仏教に遇う、信心をいただくということは、その壁がなくなるということです。信心とは無量寿如(永遠のいのちの仏)が私の自我の壁を破り、私の中に入ってくださることですから、生と死の壁がなくなり、死ぬことが不安でなくなるのです。もちろん肉体はいつか無くなりますが、永遠のいのちの今を生きているのです。人間は自分の立場に固執していろいろな壁・垣根・殻・枠を作って争っています。男女、人種、地位、年齢、職業、政治、宗教など、壁や垣根や殻や枠を作って苦しんでいます。壁や殻を破る、垣根や枠を超えることが仏教の目指す道です。壁を作って自分を守ろうとしているのですが、逆に自分を追い込んでいるのです。生きる世界を狭くしているのです。人間は誰しも我が身が可愛いし、自意識、自分への執着がとても強いです。仏さまにまかせて、自分へのとらわれから離れて、もっと広い世界に出ていきましょう。

at 15:24, 不死川 浄, -

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宇宙の法則に従う

 仏教とは宇宙の法則(真理)に従って生きていこうという教えです。人間はこの法則に逆らうから苦しむのです。仏教とはお釈迦さまが作られたのではありません。この法則に目覚められ覚者(仏陀)となられたのです。人間は赤ちゃんの時は仏さまのような存在ですが、自我が芽生え、知恵・分別がつくと同時にこの法則に逆らい、自我中心に生きるようになり、思い通りにならなくなるので苦しむのです。自力ではどうしても自我・我執の無くならない私たちのために、真理の方から「宇宙の法則に従って生きよ」とのよび声がはたらいているのです。それが念仏です。念仏に生きるとは、宇宙の法則に従い、真理にまかすことなので、必ず仏となる身となるのです。

at 16:24, 不死川 浄, -

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真実に生きる

 真実に生きるとは、真実に背いて生きている自分に気づきながら生きていくことです。「正直になろうとすればするほど、正直でない自分が見えてくる」ように、真実が私の不実を不実と気づかせ、真実へと導いてくれるのです。真実とは、辞書によれば「嘘・偽りのないこと、本当のこと、まこと」とあります。人間は縁次第で嘘を言ったり偽ったりします。人の為と書いて偽りと読むように、相手の為と思いながら、自分の都合で行っていることも多いです。「私は嘘を言ったことがないと嘘を言う」「ウソを言わない、人のかげ口を言わない、人にこびない、みんな私にできぬことばかり」 これが私たち人間の真実です。以前NНKのプロフェショナルという番組で坂東玉三郎さんが出演されていた時、アナウンサーが「歌舞伎の目標はありますか」という質問に、坂東さんは「天はごまかせません。天にごまかさないように生きていくことが目標です」と話されていました。厳しくごまかさず自分を見つめている人の言葉です。ごまかしている自分を知っているからこそ、ごまかさないようにに生きていくことが目標ですと話されているのです。

at 20:35, 不死川 浄, -

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鬼も内

 誰しも良いご縁は欲しくて、悪いご縁は欲しくないものです。今日は節分で、多くの人が「福は内、鬼は外」と悪いご縁が来ないようにと豆をまいています。しかしどんなに仏や神に祈願しても、生きておれば必ず不幸や災難に遇います。「人生は苦なり」です。かならず老・病・死に遇いますし、一寸先は何が起こるかわかりません。仏教は、災難が来ないいように祈ることではなく、災難がきても引き受けていく力を得ることを教えています。私たちの命もご縁によるいただきものです。良いご縁も悪いご縁もいただきものです。いただくことが出来れば苦を乗り越えていくことができます。そして仏教は人間の本性そのものを問題にしています。「みな人の心の底の奥ノ院、開帳すれば本尊は鬼」と言われるように、私たちは腹が立った時、思い通りに行かなかった時、頭から角を出していないでしょうか。仏教を聞けば、角が見えるようになるのです。もともと鬼は内にいるのです。怒りや愚痴の心です。信心とは、そこに仏さまが同居してくださることです。「わが胸に鬼と仏が同居して、角を出したり手を合わせたり」という生活を歩ませていただくのです。

at 01:27, 不死川 浄, -

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物みな自得す

松尾芭蕉の言葉に、「静かに見れば、物みな自得す」とあります。自得とは、自分で引き受ける、与えられたご縁を受け止め、自体満足するということです。あらゆるもの、花も木も鳥も虫もそれぞれみな自得して生きていますが、人間だけはなかなか自得できないのです。それだけ我や煩悩が強いからです。比べたり、損得の計算をして引き受けられないのです。「どうして私だけがこんな不幸に合わなければいけないのか」と愚痴をこぼし自得できないのです。与えられたものは受け止めるしかないのです。人間もって生まれたものはみな違います。男として女として生まれたこと、その環境で育ったこと、それぞれ引き受けるしかありません。生きていればどんなご縁に会うかわかりません。そのご縁を受け止め、引き受けることにより生きる方向が見えてくるのです。松尾芭蕉の俳句に「よく見ればなずな花咲く垣根かな」とあるように、小さななずなの花が自得して、見事に自分の花を咲かしているように、与えられたものを受け止め自得して、それぞれ自分の花を咲かして生きるのです。

at 16:06, 不死川 浄, -

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身につく

 何事でも、身につかなければ生きる力にはならない。頭でわかっていても、実際やってみればできないことがある。それはまだ身についていないからです。身につけば離れるなることはない。一度身につけば無くそうと思ってもなかなか無くなるものではない。仏教も身につかなければ生きる力にならない。仏教は、頭や心で聞くな、身で聞かなければいけないと言われる。頭で聞くとは、たとえば薬の知識や効能をよく知っても、飲まなければ病は治らないのと同じです。心で聞き「いい話やった、感動した、ありがたい話やった」と喜んでも、我が身が問われなかったら、何十年と仏教を聞いても生きる力にはなりません。他人事ではなかった、自分のことやったと、我が身が厳しく問われてくるのです。この私を救うために仏法が説かれていたのであったと聞いていくのです。我が身が問われて、我(エゴ)の壁が破れ、仏さまが私の中に入ってきてくださるのです。信心とは仏さまが私の中に入って、私と同居してくださることです。いつも仏さまと一緒です。仏さまと一緒に、喜んだり、悲しんだり、苦しんだり、仏さまと一緒に生きていくのです。

at 02:05, 不死川 浄, -

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海に帰る

 『方丈記』に「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。」とあるように、川は一瞬たりとも留まらず流れ続けています。流れが止まったら川ではなくなります。まさにこの世の真理である無常ということを教えています。そして川はどんな川も、きれいな川も、汚れた川も、濁った川も、長い川も、短い川も、みんな一味(塩味)なる海に帰ります。これは自然の道理です。法則です。人間も無量の寿(いのち)に生かされています。この世の縁が尽きれば、いま私を生かしてくださっている一味平等なる無量寿の世界(浄土)に帰るのです。ただ人間は自然の道理に逆らって生きているので、いのちの帰る処を見失っているのです。それ故に無量寿の世界から阿弥陀如来が念仏となり、「我にまかせよ、必ず救う」と、よび続けてくださっているのです。人間の分別やハカライを超えた自然のはたらきにまかせば、どんな人も一味平等なる無量寿の世界(浄土)へ帰らせていただくのです。「念仏成仏自然なり」です。

at 02:51, 不死川 浄, -

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ご縁をいただく

 私たちはすべてご縁によって成り立ち、それぞれご縁の中で生きるしかないのに、そのご縁をいただくことができなくて迷っているのです。私たちの命も縁次第でどうなるかわかりません。いつ、どこで、どんな死に方をするかわかりません。私たちの心も縁一つで喜んだり、悲しんだり、苦しんだりしています。その喜びも、私という存在がいて喜ぶのではないのです。喜ぶご縁に出会ったから喜ぶのです。腹を立てるのも私が腹を立てるのではなく、腹を立てるご縁に出会ったから腹が立ったのです。自分では腹を立てようと思っても腹は立てられません。悲しみも苦しみも同じです。ご縁により喜んだり、悲しんだり、苦しんでいるのです。そのご縁をいただいて生きるしかないのに、そのご縁をいただけないから、良い縁が欲しくて、悪い縁は欲しくないと願うのです。これが現世利益信仰の原点です。人間は本当に身勝手なもので、いのちの事実を知らないから良い縁が欲しくて、悪い縁は欲しくないと仏や神に祈願しているのです。しかし人それぞれ今まで良い縁や悪い縁をいただいて今の自分がいるんです。もちろん悪いご縁には出遇いたくないが、いただいたご縁を受けとめていくしかないのです。苦しいご縁に会えば苦しんでいいのです。そのご縁をいただくことにより、学び、気づき、成長していくのです。仏法に出遇えば、「無量寿」すなわち如来さまからいただいたいのちです。この苦しみも如来さまからいただいたものです。如来さまがいま私の身体の中で苦しんでくださっていると気づくんです。それに気づくからモッタイナイといって苦しいご縁をいただけるのです。ある念仏者の言葉です。「長く生かさせてもらったから、ボケまでいただきました」「こんな苦しい思いをするのも、仏さまから命をいただいたおかげです。ナンマンダブ、ナンマンダブ」「足が痛くなるまで命をもらっておきながらすぐに愚痴が出る、恥ずかしいことです、モッタイナイことです」 それぞれご縁をいただいて生きていきましょう。

at 18:27, 不死川 浄, -

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あなたの宝物は

 島根県の歌人上代絲子さんは、幼い時おじいさんの膝に抱かれて口癖のように、おじいさんから「どんな宝も持って歩くことはできないが、お念仏だけはどこにでも持っていくことができる。お念仏を忘れるなよ。お念仏は一生の宝だぞ」「お念仏を称えるときは一人ではないぞ。いつも一緒に如来さまがいらっしやるのだぞ」という言葉を聞かされたそうです。その言葉を聞いて育った彼女は、「祖父を継ぐ南無阿弥陀仏その外は我に宝の何ひとつなし」と歌われています。彼女の人生は数々の苦難が襲う逆境の中で、お念仏を大きな生きる力として生き抜かれたのです。お念仏の宝は、いつでもどこでもどんな時でも持っていくことができます。苦しみの中お念仏を称えると、苦しみの中にありながら安けき心がにじんできます。ある人は「念仏だけが死ぬときに持って行けるたった一つの宝物です」と述べられていました。以前阪神大震災で新築の家が倒れ借金だけが残った人が、「これからは家が倒れても、焼かれても、流されても大丈夫と言えるものを支えとして生きていきたいです」と話されていました。どんな状況になっても無くならない宝物を持ちましょう。

at 16:45, 不死川 浄, -

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あけまして南無阿弥陀仏

  光寿無量

 人間は自分の不自由さに仕えて成熟していくんです。その不自由さを何とかしようとするんじゃなくて、

その不自由さを面白がっていく、それが大事だと思うんです。歳をとるということは本当に面白いものです。(樹木希林)

                        本年もよろしくお願いします。

 

                           2019年 元旦        不死川 浄

at 18:22, 不死川 浄, -

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