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生きる力

 念仏は、私たちに生きる力、生き抜く力、変化に対応できる力を身につけさせてくださるのです。生きる力を身につけるには、確かな支えが必要です。生き抜く自信となる土台が必要です。いま生かされているいのちの事実も知らねばなりません。私たちが病気や事故や災難に会い、辛い時、苦しい時、悲しい時、一人ぼっちで寂しい時、また死に直面した時でも、事実を受け止め、乗り越えていく力を得させていただくのです。たとえば草木や竹が雨や風や嵐に遭っても倒れず生き抜くには、土台となる根がしっかりしているからです。念仏に遇うとは、補強工事でも内装工事でもありません。いのちの根を身につける土台工事です。「これから先の人生は、幸か不幸か知らねども、どちらになってもよろしいと確かな覚悟ができました」といえる生きる力を身につけるのです。一寸先は闇です。何が起こるかわかりません。でも確かな支えとなる、いのちの根がしっかりすれば変化に対応できます。どんな状況になっても生き抜くことができます。念仏とは、どんなことがあっても私があなたを支えます、いのちの根となります、いつもあなたと一緒ですという阿弥陀さまの約束です。いのちの叫びです。念仏に遇ってください。仏のみ名を聞いていきましょう。

at 17:51, 不死川 浄, -

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仏法は無我にて候

 東山魁夷氏の言葉に「自分の我があったら、本当に美しい絵は生まれないのです」とあるように、信心も念仏も自分の我があったら、信心でも念仏でもないのです。私が信心するのではありません。私が信じた心は、都合が悪くなればすぐ崩れます。すぐにころころと変わります。信心とは私が信じるのではなく仏さまのまことの心が、我を破り信じさせてくださる心です。念仏も私が称えているのですが、仏さまが称えさせ、仏さまが私の口から出てくださっているのです。蓮如上人は「仏法には無我にて仰せられ候。われと思うこといささかもあるまじきことなり」と教えてくださっています。人間はどこまでも自我中心に生きています。我とは思い通りにしたい心であり、我がいつも真理に背き、逆らい、苦しみを生んでいるのです。我が救いの障害となっているのです。いささかも我があれば救われないのです。この厄介な我というものを、いかに解決するかということが仏教の根本問題です。偉大な芸術家たちは、そのものの美に捉えられ、そのもののいのちの叫びを聞き作品を描いているように、真理からのよび声を聞いていくのです。私たち凡人でも救われるように南無阿弥陀仏の念仏となり「我にまかせ」とつねに叫び続けていられるのです。念仏に遇うと我が破れ、仏さまが私の中に入り、いつも仏さまが一緒に生きてくださるのです。

at 19:35, 不死川 浄, -

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超我の奉仕

 超我の奉仕とは、我を超え、我をなくして奉仕に努める無償の奉仕ということです。簡単に言えば「自分がしてやった」という思いを捨て奉仕することです。布施ということは、施しをすることですが、相手のためにするのではなく自分のためにするのです。物を持てば物に、お金をもてばがお金に執着します。その執着を捨てる行です。施しをしたほうが「ようこそこの行をさせていただきました」と礼を言うのです。奉仕もボランティアも、相手のためにするのではなく、自分のためにするのです。そのことがより自分の人生を豊かにするのです。ちなみに人の為と書いて偽(ニセ)とよみます。ある小学生の詩に「お母ちゃん、すぐにお前のため、お前の為というが、自分のためや」とあるように、人の為と言いながら、自分の都合でしていることが多いです。相手のためにしてやっているという思いが強ければ、思い通りにならなかったときは、愚痴や怒りや憎しみへと変わります。よく「恩を受けたことは石に刻み、恩を与えたことは水に流せ」と言われますが、実際は逆のことが多いです。恩を受けたことは忘れ、恩を与えたことはいつまでも心の帳面につけています。相手の出方次第では愚痴や憎しみとなり怒りの炎を燃やしています。「雑毒の善」といわれるように、私たちがしている善を見つめると毒が雑っていることが多いです。善根を積んだつもりが反対に地獄行きの種をまいているのです。仏法を聞くとは、仏の真実に照らされ、自己の本当の姿が知らされてくるのです。と同時に仏の真実が我を破ってくださるのです。

at 17:18, 不死川 浄, -

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仏さまが出る

 何故念仏一つで救われるのか、何故念仏のみまことなのか、何故念仏がありがたいのか、それは仏さまが私たちの口から出てくださるからです。念仏とは人間の言葉ではなく真理の言葉であり、阿弥陀如来自身です。念仏とは阿弥陀如来が私たち苦悩の有情を救うには名の仏になるしかないと見抜かれて、名の中にすべての功徳を込めて、南無阿弥陀仏となり、私たちの口から出てくださるのです。もちろん私が称えているのですが、阿弥陀さまが称えさせてくださっているのです。「私が申す念仏やけど私でない、仏さまのよび声です」「称える称名われかと思った、そうでなかった弥陀のよび声」「み仏のみ名を称えるわが声は、わが声ながら尊とかりけり」です。なかなか口から念仏が出てこないですが、阿弥陀さまの摂取不捨のお慈悲が、温もりが我が身に伝わってくると、「いつも一緒だよ」「どんな時も支えになるよ」「必ずあなたを救い仏にする」とおのずと口から出てくださいます。仏さまが私の口から出てくださっていると気づいたら、とても大きな喜びであり、心が安らかになります。とてもありがたいです。

at 16:57, 不死川 浄, -

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私の念仏・仏の念仏

 仏法を聞いていない人の念仏、仏法がまだ届いていない人の念仏、自力の念仏は、念仏を称える主体は私であり、私の念仏です。しかし親鸞聖人が伝えてくださった他力の念仏は、念仏を称える主体は阿弥陀如来です。阿弥陀さまが私たちを救うには念仏になるしかないと見抜かれて、南無阿弥陀仏となり、私の口から出てくださっているのです。もちろん私が称えているのですが、阿弥陀さまが称えさせてくださっているのです。だから念仏一つで救われるのです。私の念仏をいくら心を込めて一生懸命称えても、そこには喜びも安心もありません。。他力の念仏は、念仏を称えるときはいつも阿弥陀さまが一緒です。つらい時、苦しい時、悲しい時、どんな時もいつも阿弥陀さまが一緒にいらっしゃるのです。私たちが苦しい時ほど、私たちの口から出てくださるのです。本当に苦しくてどうにもならない時、例えば特攻兵士が出撃のとき「お母さん」と叫んだ人が多いと聞きましたが、「お母さん」がいつも一緒だよと口から出てくださったのです。お母さんの温もりが伝わっているからお母さんが口から出てくださったように、阿弥陀さまの摂取不捨のお慈悲が温もりが伝わっていれば、おのずと口から出て喜びと安らぎを与えてくださるのです。「み仏のみ名をおのずと呼ばしめて、安けき心にじませたまふ」藤原正遠師

at 00:32, 不死川 浄, -

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すでに救いあり

 すでに救いありです。救いはもう届いているのです。気づかないのです。救いはもう届いているから、どうしたら助かるのかを考えなくていいのです。よく聞いたら助かるのではないのです。もう救いが届いていることを聞くのです。私たちの救いは、阿弥陀如来が念仏になられたことによって成就しているのです。阿弥陀如来は、生死の苦海に久しく沈んでいる私のところに来て、「マカセヨ、必ず救う」「さあ早く弥陀の船に乗りなさい」とよび続けて下さっているのです。ただ「ハイ、ありがとう」と応えたらいいのです。何故「ハイ」と言えないのか。それは自分が生死の苦海に沈んでいることに気づいていないからです。『歎異抄』3条に「自力作善の人は、他力をたのむ心かけたる」とあるように、まだまだ自分を善人と思っている人には、弥陀のよび声が少しも聞こえてこないのです。まかそうとしないのです。しかし自力では到底救われない罪悪深重の凡夫であることに気づくと、「マカセヨ、必ず救う」という弥陀のよび声が我が身に沁みてくるのです。大峯顕先生は「私が助かる証拠は、阿弥陀さまが『必ずお前を助ける』と仰っているからです」と話されていました。

at 01:22, 不死川 浄, -

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槍は通すもの

 先日のテレビ番組で聞いた話です。ある女性が大事な用事で京都から山形へ列車で行く途中、金沢あたりで大雪になり列車が進むことが出来ず引き返すことになった。どうしても山形まで行かねばならない女性が「やりきれないわ」と叫ぶと、横にいた紳士が「槍は切るものではありません。槍は通すものです」と静かに話したそうです。もうあきらめて帰ろうかと思っていた心が、その言葉を聞いて「やりとうそう」と思い返し、東京に回り別の便で予定より何時間もかかり山形に着いたそうです。無事山形に着いた女性は、現地の人から、約束を守るとても意志の強い女性だと褒められたそうです。その女性は、「槍は通すものです」という紳士の言葉がなかったらきっと諦めていたでしょうと話していました。心が折れかけていた時、たとえダジャレでも心に響く言葉に出会うと生きる力となります。生きていれば「遣り切れない」「どうにもならない」ことは何度も出会います。その時に支えてくれる言葉、生きる力を与えてくれる言葉、悲しみ寄り添ってくれる言葉に出遇いたいものです。

at 15:25, 不死川 浄, -

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感謝について

 「縁起」ということは仏教の中心思想ですが、よく「縁起がいい」とか「縁起が悪い」という言葉を聞きますが、これは仏教でいう縁起ではありません。縁起の前に「私」が先にいるので自分の都合で判断しているのです。良いことも悪いこともご縁です。いただきものです。そのご縁を受け止めて生きることを教えています。受け止めると悪いと思っていたご縁も必ず生きてきます。「感謝」ということも、私たちが言う感謝は、都合の良いことだけ感謝し、都合の悪いことは感謝できない。この感謝なら、喜んでいても都合が悪くなればすぐに愚痴や恨みになります。感謝とはいますでにいただいている恩恵に気づくことです。天地自然の恵み、無量のいのちに支えられ生かされていることに目覚めることです。仏や神にお参りするのは、お願いではなくお礼です。いまいただいているいのちの真実に感謝せず、もっと欲しいというのは我欲の満足に過ぎません。いのちの真実に出遇わないと感謝といっても駄目なのです。人間は慣れてくると「おかげさま」を忘れ、「あたりまえ」になり感謝する心を忘れて、自分の力だけで生きていると錯覚し傲慢になります。この錯覚が我欲を求め、人間同士の争いを起こします。この世で最も不幸なことは感謝の心がないことです。それ故にこそ、謙虚に仏さまの教えを聞かねばならないのです。

at 17:46, 不死川 浄, -

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いのちも預かりもの

 前回「自分の金も財産も、世の中からの預かりもの」と松下氏の言葉を書きましたが、「いのち」も預かりものです。自分の所有物ではありません。私たちは不思議なご縁でこの世に生まれてきました。いま生きている私たちのいのちは無量のご縁で生かされています。いただいているご縁を全部取り外したら何もありません。何もないということが「空」ということです。私がご縁によって生きているのではなく、ご縁によって私が生きているのです。ご縁の前に「私」を先に入れるといのちの事実を見失います。「私」そのものがご縁によって生きているのです。縁次第でいつ死んでもおかしくないいのちです。いま生きているというのは、生きるご縁があるからです。死のご縁が来たら、いま私を生かしている無量寿の世界へ帰るのです。預かっているいのちのお返しです。本当に不思議なご縁で人間として、この私としてこの世に生まれてきました。二度とない人生です。預かっている限り、悔いなく、大切に、精いっぱい生き抜いて生きたいものです。「死に向かって生きているのではない。今をもらって生きているのです。今ゼロであって当然の私が今生きている」(鈴木章子)

 

at 18:43, 不死川 浄, -

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世の中からの預かりもの

 松下幸之助氏の言葉に「自分の金、自分の仕事、自分の財産、自分のものといえば自分のものやけど、これもやっぱり世の中からの授かりもの、世の中からの預かりもの」とあります。「経営の神様」と言われた松下氏の言葉には仏教的要素が多く含まれています。「成功の秘訣は、天地自然の道理に従うこと」「自分の仕事は人の助け無くして、一日も進み得ないのである」「自分の方向を変えれば、新しい道はいくらでも開ける」「商売は感動を与えることである」。世の中からの預かりものということは、仏教の中心思想である「縁起」そのものです。「縁起」とは、「すべての存在は縁によって起こっている」ということであり、自分の持ち物でも、縁があって自分が預かっているのであり、縁が無くなれば去っていくのです。自分のものであって自分のものではないのです。これは自分のものだと執着するところに苦しみが生まれます。天地自然の道理に従うことに、経営の本質もあり、生きていく本質があるのです。

at 15:30, 不死川 浄, -

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