2012.03.27 Tuesday
自我のメガネをはずす(2)
自我のメガネをはずしても、決して無くならないし、はずしたと思っていてもすぐに自我のメガネをかけて見ている私ですから、仏の眼をいただき、生きる座りとしなければいけないのです。
自我のメガネをはずし仏の眼をいただくとは、いのちを私有化し、いのちをエゴで握っている力が離れていくことですから、永遠のいのちを生きていることが知らされ、死を超えて生きることができるのです。永遠の今を生きているのです。 いのちを私有化し、自我のメガネをかけて見ているから、私の命が無くなることが怖いし不安です。もともと私の命というものはなく生かされているいのちです。自我で見るから私の命として見ているのです。自我のメガネをはずすと、永遠に触れ、永遠のいのちを生きている私が知らされるのです。死とは私の肉体は無くなりますが、永遠の命を生きていることには変わりはないのです。
自我のメガネをはずし仏の眼をいただくとは、いのちを私有化し、いのちをエゴで握っている力が離れていくことですから、永遠のいのちを生きていることが知らされ、死を超えて生きることができるのです。永遠の今を生きているのです。 いのちを私有化し、自我のメガネをかけて見ているから、私の命が無くなることが怖いし不安です。もともと私の命というものはなく生かされているいのちです。自我で見るから私の命として見ているのです。自我のメガネをはずすと、永遠に触れ、永遠のいのちを生きている私が知らされるのです。死とは私の肉体は無くなりますが、永遠の命を生きていることには変わりはないのです。