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真理との出遇い

 真理との出遇いは、人間の方から求めて得るものではなく、真理の方からのハタラキにより出遇うのです。日本画家、東山魁夷氏が「私が花を美しいと捉えようとしている間は、まだ花の美に出会っていない。偉大な芸術家たちは、みなものの美に捉えられた人たちです。自分の我があったら本当に美しい絵は生まれないのです」と述べられているように、人間のハカライ、理性や分別でとらえるのではなく、そのものの美に捉えられるのです。そこには自分の我はないのです。同じように仏さまとの出遇いは、私が仏さまを捉えるのではなく、仏さまに私が捉えられるのです。『歎異抄』に「念仏には無義をもって義とす」とあるように、人間の義(ハカライ)の無いところに、念仏の本当の義・真理があるということです。念仏は人間のハカライ、理性や分別でわかろうとするからわからないのです。出遇えないのです。どれだけくわしく念仏を説明され納得できたとしても、決して信や喜びは湧いてきません。信心はいただけません。広大無辺なお慈悲に出遇い、我が破れたところに如来さまが念仏となり私の口から出て下さるのです。私の口から念仏が出るのですが、念仏を称える主体はどこまでも如来さまです。「自分の我があったら本当に美しい絵は生まれない」ように、自分の我があったらまだ本当の念仏ではないのです。「聞いて助かるんじゃない、助けてあるをいただくばかり」「助けてあることの南無阿弥陀仏」といわれてるように、どうすれば助かるのかと聞いて助かるのではありません。ただ「必ず救う」という如来さまの仰せにまかせるだけです。

at 16:07, 不死川 浄, -

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