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二種深信(1)

 浄土真宗は二種深信(にしゅじんしん)に極まると言っていいでしょう。二種深信とは機の深信と法の深信です。機の深信とは、私自身は罪悪生死の凡夫であり、常に迷い続けており、自力ではどうしても迷いの世界から出ることができない人間であることを深く信じることです。次に法の深信とは、阿弥陀如来は48の本願を建て、私たち凡夫を必ず救ってくださることに、疑わずためらわず、如来の本願力にまかせれば、間違いなく救われることを深く信じることです。深信とは、思い込むとか思いを固めるという意味ではなく、その事実に気づくということです。機とは、法を受けとめる人間・衆生のことです。
 阿弥陀如来は、いつでもどこでも私たちを救おうと働いてくださっています。しかしいくら阿弥陀如来の素晴らしさを聞いても、私たちに機の深信がなければ、法が私に届かないのです。この身に響かないのです。この身が喜ばないのです。「マカセヨ」「ハイ」とは言えないのです。現代は、法を聞いても機の深信がない人が多いです。いくら仏法を学んでも、聴聞しても、機の深信即ちわが身が自力では救われない罪悪深重の凡夫という事実に気づかなければ救われないのです。生きる力、支えにならないのです。機の深信なくして法の深信はないのです。ただし機の深信は、法の働きによって気づかされるのです。法なくして機の深信はないのです。
 

at 02:54, 不死川 浄, -

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宮元いざや丸, 2012/09/02 12:47 PM

御多忙中おそれいります。御サイトの「二種深信」を拝見した者です。
私は仏教徒ではないのですが、親鸞聖人のお教えに関心ある者です。二種深信について学ぼうと思っていたところ、「機」という言葉が出て来て疑問を感じ、さらに「因」と「縁」について、さらに「縁なき衆生は度し難し」の「縁」について疑問を持つに至りました。また御サイトで述べておられる「信心」についても知りたいので、以下、3点になりますが、お時間の許されます時にお教え願えれば幸いです。便宜的に箇条書きにする失礼を御容赦下さい。

(1)「機」について
「〈縁〉に遇えば発動する人それぞれの可能性のこと」(〜大谷大HP.「生活の中の仏教用語 - [274]」)、「人の資質」(〜日本国語大辞典)、「機感と熟字すれば衆生が仏教に対しこれを受け止めるべく、何らかの心意識の発動する状態」(〜日蓮正宗正見 山知道寺HP.) とか、人の宗教的素質や能力のこと(〜サイト「暮らしの中の仏教語」)とか、さらには「法を説く相手のこと」(〜天台宗HP.)、「自分自身」(〜安富信哉著『親鸞・信の構造』〔法蔵館〕)と色々、言われていますが、大別すると「人の属性」(可能性、能力・資質)と人そのものとに分れるように思われます。どちらでしょうか?人のあり様のことなのでしょうか?

(2)「縁なき衆生は度し難し」について
この場合の「縁」が仏縁であることはわかっていますが、「縁」以外にも「因」があり「機」があり、これらが相俟って度すこと、すなわち仏教的救済が実現されるのではないでしょうか?ならば「縁なき・・・」の「縁」を「機縁」(根機・因縁)と言い換える方が適切ではないでしょうか?あるいは、「機縁」の意味を込めて単に「縁」と表現しているのかも知れませんが、この点、どのように思われますか?「因」も「機」もなしに「縁」だけで救われるなら、「機縁」という言葉は不要ではないでしょうか?これは解釈の妥当性の問題でもあります。

(3)御サイトの本日の「信心とは」で「信心」は阿弥陀仏が自分の中に入ってこられることと言われ、「他力の信心」であることが示されています。「信心する」のではなく「信心をいただく」のですね。実はこの点は私が属しておりますキリスト教のプロテスタントとも通じる点があり、「信仰」は神の賜物であるといわれます。ところで真宗では「信心」と「信仰」とは区別しておられるのでしょうか?「信仰」という言葉も元々は仏教の言葉で、キリスト教がこれを聖書の訳語に用いたようですが、本来、仏教で「信仰」という言葉がどういう意味で使われていたかはよく知りませんが、中村元さんの本などを読みますと肯定的な意味ではなかったようです。それはともかく、真宗では「信仰」という言葉も使われることはあるようですが、「信心」とどう違うのでしょうか?イメージ的には「信心」は他力的で、「信仰」は自力的でしょうか?どのように区別しておられますか?

不死川, 2012/09/03 2:26 AM

機機についてですが、二種深心に「自身は現に罪悪生死の凡夫、曠刧より已来常に没し常に流転して出離の縁あることなし」と深く信ずべしとあるように、自力では救われない私。法に照らされた私。人間そのものと受けとめています。
2、「縁なき衆生は度しがたし」はことわざになっていて、どんなに慈悲深い仏さまでも仏縁が無ければ救うことが出来ないという意味のようです。もちろん縁があっても、機に響かなければ救いの因は届いてきません。仏縁があっても仏法が届いていない人は多くいます。     、信心と信仰の違いはキリスト教では良く言うようですが仏教ではあまり言いません。私自身信仰という言葉を使ったことは一度もありません。他力の信心、自力の信心は良く言います。真宗はどこまでも他力の信心です。

宮元いざや丸, 2012/09/03 7:58 AM

不死川様、適確なる御教示を感謝致します。よくわかりました。小生が「縁なき衆生は度し難し」ということわざにこだわる理由は、聖書でも福音の真理が、わからぬ者はどんなに説き明かされてもわからぬという現実が示されているからです。聖書的には「仏さまとの縁なき」ではなく「神の許しなき」あるいは「聖霊の導きなき」です。種まきの譬(たとえ)の場面で弟子たちがイエスに対して、何故、群衆に対して譬で語るのかと問うたところイエス曰く、「汝らは天国の奥義を知ることを許されたれど彼らは許されず。・・・この故に彼らには譬にて語る、これ彼らは見ゆれども見ず、聞ゆれども聞かず、また悟らぬ故なり」と答え、預言者イザヤの「汝ら聞きて聞けども悟らず、見て見れども認めず。この民の心は鈍く、耳は聞くにものうく、目は閉ぢたればなり。」云々という言葉を引かれました。
「縁」は単に仏縁という意味だけではなく、因と不可分であって因縁、そしてその仏縁を受ける側の根機も必要であるということでよいですね。根機因縁(機縁)ですね。「縁なき衆生は・・・」ではなく、正確には「機縁なき衆生は度し難し」と言うべきですね。十方衆生と全てを救うという弥陀の誓いの前で、縁なきという言葉は意味が無いと言われる真宗徒もおられますが、仏教的救済はキリスト教でもよく誤解される「万人救済」乃至「万有救済」ではないでしょう。現実として仏との間に機縁なき衆生はいるわけで、それらの人々は仏教的には救われないわけですからね。つまり仏教の信心を持たぬ者が仏教的救済に与れるわけではないのと同様、キリスト教の信仰を受け入れない者がキリスト教的(これは必ずしも「聖書的」という意味ではない)救済に与れるわけではありません。いかに信心なり信仰が他力であり賜物であるとしても、当人の信の自覚を抜きにして救いがあり得ぬことは真宗もプロテスタントも同じでしょう。もちろん当人の知らぬ間に救われていたということはあるかもしれません。後で気づいてみると自分は阿弥陀さまに助けられていたとか神さまに生かされていたのだとわかることがある・・・、しかしその場合もそのように自覚化されてこそ救いが現実のものとなるのですよね。当人が一生、死ぬまでそうした自覚がないのに救われたとは言えない。信と救いとは不可分でしょう。しかし、救われないイコール不幸ということではなく、仏縁なき人は仏教的には救われませんが、それゆえ死んだら地獄行きということではなく、仏教的救済を必要とせず別の道を生きており、その道で救われる・・・同様に聖霊の導きなしにはキリスト教的には救われませんが、こちらの場合も地獄行きということではなく、キリスト教的救済を必要とせずに別の道を生きており、その道で救われる・・・そのように私は考えています。真宗もプロテスタントも「信楽」であり、信じる生活そのものが救いだと思います。そうすれば宗教はお互いの道を尊重し合い、多様性を積極的に認め合うことが出来ます。これは安易な万教帰一・宗教多元思想とは異なり、諸宗教それぞれの道の独自性・固有性を認めた上で連帯する思想です。要は、地獄という否定的なものを非神話化し、極楽や天国という肯定的なものを現在化することによって、宗教教義の排他的・独善的態度を放棄することが出来ます。これは相対主義でもなく、宗教の相対性・普遍性の中に各々が絶対性・個別性を見出す思想です。いかがでしょうか?
ちなみに小生自身の道は親鸞教的キリスト教を自認しております。合掌

不死川, 2012/09/03 5:42 PM

阿弥陀如来の願いは、十方衆生の救い、万人平等の救いです。それを実現するために阿弥陀仏自ら念仏となり「必ず救う、我にまかせよ」よび続けています。縁なき衆生であっても、仏を疑い・背き・逃げ回っている人にも、如来は決して見捨てず救いを届けられています。人によりいつ出遇うかわかりません。親鸞聖人が「たまたま行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」と述べられているように、救いに遇うということは、不思議なご縁です。信心とは「疑蓋無雑」と言われるように、阿弥陀仏の願いに我々の疑いの蓋が無くなることです。「蓋ある水に月はやどらず」といわれるように、月はすべてを照らしても、蓋があれば水に宿ってきません。我々は分別・ハカライによりすぐに自我の蓋をしています。この蓋が破れた時、「必ず救う」という弥陀の声が我が身に沁み込むのです。阿弥陀仏が我々の中に入って来てくださるのです。真実の宗教は普遍的なものです。誰にでも平等に働いています。その中で各々が絶対性・個別性を見出していくのです。










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