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この世の利益きはもなし

 親鸞聖人のご和讃に「南無阿弥陀仏をとなふれば この世の利益きはもなし・・・」とあります。この世の利益きはもなしとは、最高のご利益が得られたということです。最高のご利益とは、長寿でも健康でも金持ちになることでもありません。死なないいのち、永遠のいのちをいただくことです。これ以上のご利益はありません。中国の曇鸞大師が長命を願って不老長寿の仙術を学んで帰ってきたとき、三蔵法師の菩提流支により浄土の教えに出遇い、自分の愚かさに気づき仙術の経をすべて焼き捨て、浄土の教えに帰依されました。たとえ長寿を得たとしても、いずれはこの世を去り迷いの輪廻を繰り返すだけである。いのちを我がものと思い、その長寿を願うことは、自我の欲望の満足を願うことの愚かさに気づかれ、阿弥陀の無量寿のいのちをいただかれたのです。真理に気づかれたのです。もちろん肉体は始めと終わりがありますが、いのちに始めも終わりもありません。永遠のいのちです。いま私たちはその無量のいのちに生かされているのです。それを自分の命と思っているから迷い苦しむのです。「真理に目覚めよ」「阿弥陀仏に南無せよ」という念仏のはたらきにより、死なないいのち、永遠のいのち、無量のいのちをいただくのです。これ以上のご利益はありません。いつ死んでもよし、いつまでも長生きしてもよし、おまかせです。

at 01:39, 不死川 浄, -

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意味を持って生きる

 「過去を変えることはできないが、意味を変えることはできる。人は事実で生きているのではない。意味を持って生きているのだ。」という言葉に出遇いました。人はそれぞれ過去に苦しかったこと、辛かったこと、恥ずかしかったことを経験しています。その過去の事実をを変えることはできないが、その過去の持つ意味を変え、過去を生かすことはできます。あの辛い苦しいことがあったから今がある、強くなれた。あの恥ずかしい失敗があったからこそ、もう同じ過ちはしなくなったと過去を生かすことはできます。「人は事実で生きているのではないのです。意味を持って生きているのです。」たとえ貧しくても、病弱でも、その中で意味を持って生きれば、いのちが輝きます。未来に向かっても、必ず歳をとり死ぬことは事実ですが、いかに歳を重ねていくか意味を持って生きるのです。死に向かって生きているのではない。いま私を生かしている無量の寿(いのち)の世界へ往き生まれるのです。死ぬんじゃない、生まれるのです。

at 16:39, 不死川 浄, -

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恩を知る

 浄土真宗の法要では、最後に皆で親鸞聖人のご和讃の「恩徳讃」を歌います。「如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし・・・」この思いは親鸞聖人の実感です。浄土真宗とは、阿弥陀如来のご恩に気づいていきましょうという教えです。いま私たちは目には見えないが間違いなく如来大悲の中に生かされています。そのはたらきに気づくのです。衣食住はじめ目に見えない無量の寿(いのち)の中に生かされて生きています。また如来は、私の迷っている姿を気づかせようとはたらき続けていられます。仏さまとは「はたらき」です。そしていつでも、どこでも、どんな時でも、私を救おうと南無阿弥陀仏となり喚(よ)び続けていられます。「恩」とは、私のためになされているご苦労を知る心です。理屈でも観念でもありません。いま現実に如来大悲の中で生かされていることに気づき、我が身に実感するのです。如来大悲のご恩を感じることが真宗の要です。そのご恩に報いて生きていくのです。

at 16:31, 不死川 浄, -

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口で称え、耳で聞く

 念仏を称えるとは、口で称え、耳で仏の声を聞くのです。自分で称えるのですから、どんなに耳の遠い人でも聞こえます。自分で称えているのですが、仏さまのはたらきにより称えさせてくださっているのです。「私が申す念仏やけど私でないがや、仏さまのおよび声や」です。私の汚い口から仏さまが出てきてくださっているのです。スゴイことです。その仏さまの声を聞くのです。念仏は称えることより聞くことが重要なのです。念仏は真理の言葉であり、仏さまの言葉です。仏さまは私たちが苦しいければば苦しい時ほど「ことにあわれみ」私たちの口から出ようとはたらいてくださっています。それが仏さまの願いであり、大悲であり、はたらきです。念仏者とは、つねに念仏を称え、仏さまの声を聞いて生きている人です。

at 16:11, 不死川 浄, -

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サンキューブッタ

 私たちが念仏を称えるのは、「ありがとう阿弥陀さま」「サンキューブッタ」「称名報恩」という意味であると言われてきました。間違いではありませんが、私はこの解釈が念仏のはたらきを狭いものにしてきたのではないかと思っています。「ありがとう阿弥陀さま」と言えるのは、阿弥陀さまの心が我が身に届いて言える言葉です。喜んでいないのにどうして「ありがとう」と言えるでしょうか。不自然であり、観念的になってしまいます。「ありがとう阿弥陀さま」と言えるのは信心をいただいた後のお礼の言葉です。親鸞聖人は、念仏は「本願招喚の勅命なり」と教えられています。阿弥陀さまが私たち凡夫を救うには念仏(よび声、名号)になるしかないと見抜かれ、私たちの口を通して「我にまかせよ、必ず救う」「気づいてくれよ、気づいてくれよ」とつねに喚(よ)びつづけ、喚び覚ましてくださっているのです。称名が単に報恩の意味だけなら、阿弥陀さまが私たちに念仏を喚びかける必要はありません。親鸞聖人は、「疑心の人も、自力の人も、如来大悲の恩を知り、称名念仏はげむべし」と、ご和讃に述べられています。念仏を称え、如来大悲の恩を聞いていくのです。私たちが念仏を称えるのは、阿弥陀さまの大慈大悲の心を聞いていくのであり、そのご恩が我が身に届いたとき、「ありがとう阿弥陀さま」と心から言えるのです。

at 19:18, 不死川 浄, -

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フレディも人間も同じ

 皆さんは「葉っぱのフレディ」という絵本をご存知でしょうか? 楓の木の数多い葉っぱの一つです。春に芽が出て、夏にはしっかりした葉となり、秋には鮮やかな紅葉となり、冬が近づくにつれ枯れていくとき、「ぼく死ぬのがこわいよ」といいます。しかし冬の雪の朝、散っていきます。この絵本の中でフレディが自分の命として書かれています。フレディは自分の意志で生まれ変化し、散っていったのではありません。楓の木のはたらきにより、生まれ変化し死んでいったのです。私たち人間もいま生きている命を自分のものと思っています。そして自分の命に執着し、死ぬのが怖いと思っています。自分の命でしょうか? 私たちは生まれることも死ぬことも自分の意志を超えています。何もしなくても、寝たきりでも毎日変化し必ず死んでいきます。寝ている時も心臓は動いてます。呼吸をしています。自分がしているのではありません。いま私たちを生かせている無量の寿(いのち)がはたらいているのです。私たちは無量寿である阿弥陀如来のはたらきにまかすしかないのです。阿弥陀如来が必ず無量寿の国である浄土に連れて帰るとはたらいてくださっています。永遠のいのちの世界です。阿弥陀如来のはたらきに気づくと、「いつ死んでもよし、いつまでも長生きしてもよし、おまかせします」という世界に出遇うのです。安心して、今のいのちを輝かせて力強く生きていけるのです。

at 02:18, 不死川 浄, -

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見えない寿(いのち)

 見えるいのちは命という漢字です。見えないいのちは寿という漢字です。見える命は有限であり、始めと終わりがあります。見えない寿は無限であり、永遠であり、始めも終わりもありません。私たちの見える命は、目に見えない無量の寿によって生かされているのです。衣食住はじめ水や空気など目に見えない無量の寿にいかされています。誰の世話にもならず、自分の力だけでやれたことは一つもありません。生まれることも、死ぬことも自分の意志を超えたものです。自分のいのちではありません。無量寿のいのちです。無量寿とは阿弥陀ともいい、私たちは今、無常寿の阿弥陀如来のお慈悲の中に生かされているのです。仏法を聞く、信心をいただくとは、無量寿の仏の心が私に至ることであり、いま私が無量寿の永遠の命を生きていることに気づくことです。信心とは永遠の時間の中に入っていくことであり、死なないいのちをいただくことです。死を超えていくことであり、これ以上のご利益はありません。もちろん見える命である肉体は始めと終わりがあるから無くなりますが、本当のいのちは肉体が滅んでも決して消えることはないのです。我がいのちは、すなわち無量寿なりです。

at 15:46, 不死川 浄, -

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浄土真宗の魅力

 浄土真宗の教えの魅力は、決して誤魔化さず妥協せず、何が真実か、何が本当の救いかをどこまでも問い続けていることです。仏の智慧の光のはたらきにより、人間(私)の本当の姿を赤裸々に照らし出して教えています。いくら深く学んでも、地位があっても、信心を得たとしても、真の念仏者になっても煩悩具足の凡夫であることには死ぬまで変わりはありません。縁一つで如何なる振る舞いをするかわからない存在です。善いことをしなければいけないが、それに少しでもとらわれると、それが原因で争いや憎しみや怒りの炎を燃やし、地獄への道を歩んでいます。この私が救われるには、煩悩を持ったままの「そのままの救い」でなければ救われません。少しでもこれをすれば救われるという条件が付けば救われません。「無条件の救い」でなければ救われません。この私を救うにはどうすればいいのかと阿弥陀如来という仏さまがみずから南無阿弥陀仏という念仏となり、その中にすべての功徳をこめて私に回向してくださっているのです。「我にまかせよ」「決して見捨てない」「いつも一緒だよ」といつもよびかけ、私を支え、導き、育て、いつも一緒に浄土への道を共に歩んでくださっているのです。

at 16:37, 不死川 浄, -

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井の中の私

 「井の中の蛙、大海を知らず」という言葉があります。この言葉は、大海を知ることにより自分は井の中の蛙であったと気づくことでもあります。大海を知らなければ、自分は井の中の蛙であることにも気づきません。ただ大海を知っても井の中の蛙である事実は変わりません。しかし、大海を知った井の中の蛙と大海を知らない井の中の蛙では、これからの生き方が全く違ってきます。私たち凡夫は、死ぬまで自我の殻の中で生きている「井の中の私」です。仏の大海を知ることにより井の中の私である、すなわち凡夫であることに気づかされるのです。仏さまに私の本当の姿を気づかされるのです。それが仏法を聞くということです。自分をええもんと思っているあいだは、仏の大海に気づくことはできないのです。仏の言葉が届かないのです。身に響かないのです。仏の大海を知ったら、仏さまに導かれ、支えられ、育てられ、仏の大海への道を力いっぱい歩まさせていただくのです。

at 18:42, 不死川 浄, -

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何が有難いか

 いま生かされている命があることも有ること難しですが、何が有難いかというと、阿弥陀如来が南無阿弥陀仏の念仏になってくださったことです。それ故、この私が煩悩を抱えたままそのまま救われるのです。阿弥陀如来は、私たち凡夫を救うにはこれしかないと見抜かれ、名前の仏さま、声の仏さま、すなわち念仏になってくださったのです。南無阿弥陀仏とは阿弥陀さまそのものです。阿弥陀さまの功徳をすべて念仏に込めて私たちに回向してくださっているのです。「わが弥陀は名をもってあらゆる衆生を救う」です。なぜ念仏になられたかというと、念仏になれば称えやすく、あらゆる人々を救うことが出来るからです。大事なことは念仏を称えるということは、阿弥陀さまが私たちの汚い口から出てくださっているということです。念仏は仏さまのはたらき、仕事であり、人間の仕事ではないのです。それ故、自分の都合で、自分のハカライで称えるのではないのです。念仏を願いを叶えるための手段にしたり、ご利益や救いの手段にしてはいけないのです。念仏を人間の仕事にしている限り救われません。念仏とは私が称えるのではありません。阿弥陀さまのはたらきによって、私の口から出てくださっているのです。念仏を称えるとは、いつも阿弥陀さまと一緒に生きることです。阿弥陀さまが念仏となり、いつも支え、導き、気づかせ、育て、進むべき道を照らしてくださっているのです。

at 18:38, 不死川 浄, -

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