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死にたくない人へ

 この世に生まれたからには必ず皆死ぬんだよ。早く死ぬか遅く死ぬかの違いだけだ。もちろん健康で長生きしたいけど自分の意志ではどうにもならない。若くして死ぬ人も多い。与えられたものは受け止めるしかないんだ。僕の妻は48歳で亡くなったけど、亡くなる前、「先にお浄土へ行って待っているから、あとでゆっくり来てください」と言っていた。たまには早く会いたいとも思うが、まだまだ未練があるから、ゆっくりゆっくり行こうと思っている。でもまた会える世界があるんだよ。君も先に行って待っていてくれ。またお浄土で会おう。もともと自分の命では無いのに、自分の命と思っているから苦しいんだよ。はかり知れない無量の寿(いのち)によって生かされている命なんだ、縁が来たら無量寿の世界である浄土に帰るんだよ。浄土とはいのちのふるさとなんだ。忘れがたき故郷だよ。いつでも僕たちを待ってくれているところであり、いま僕たちを支え、励ましてくれているところであり、いつか必ず帰っていくところなんだ。帰る処を見失っている僕たちに、無量寿の世界から阿弥陀如来という仏さまが念仏となり、いつも「我にまかせ、必ず浄土へ連れて行き仏にする」とよびつづけてくださっているよ。念仏にまかすしかない。念仏があるから安心して命終えてゆけるよ。浄土とは、有るとか無いとかという問題ではないんだ、場所の概念ではない。いま生きている僕たちを支えてくれるところであり、なくてはならない世界なんだ。本当にお浄土があって良かったと思っているよ。

at 18:32, 不死川 浄, -

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突然の入院

 10月1日の朝、何の前触れもなく膝の痛みで目が覚めた。まだ何とか足を引きずりながら歩けたのでお参りも行き普通の生活もできたが、3日の夜から激痛が起こりまったく歩けない状態になってしまった。4日の朝、救急車を呼び松原徳洲会病院に行く。病名は、「偽痛風」であった。初めて聞く病名。痛風ではなく、発作の症状が痛風に似ているがそうではないという意味でつけられた病名だそうです。正直おかしな病名だ。痛風は風が吹くだけで痛いので痛風と名づけられたそうです。痛風は尿酸塩の結晶が関節に炎症をおこして起こる関節炎だが、偽痛風は、ピロリン酸カルシウムの結晶が軟骨に沈着し炎症をおこして起こるそうです。別名で「軟骨石灰化症」ともいうそうです。レントゲンで見ると、カルシウムが結晶化し石灰化した白い像が見えていた。痛風は男性に多いが、偽痛風は女性にも多いそうです。加齢により軟骨が傷んだ部分に結晶し沈着しやすいそうです。治療は膝にたまった水を向き、あとは安静と痛み止め。3日間ベッドの上でゆっくりすると痛みも治まり、何とか少し自力で歩けるようになったので6日の夜に自主的に退院する。高校3年生の時以来の入院であった。激痛の時は足を切ってくれという感情も沸いたが、痛みが無くなり何とか歩けるようになると、あたりまえの有難さが感じられます。人生何が起こるかわからないが与えられたことを受け止め、生かされていることに感謝して生きていきたいです。

at 18:31, 不死川 浄, -

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角(つの)が見えますか?

 花嫁さんが角隠しを被るのは、角(怒り)を押さえて従順な嫁になってほしいということが由来だそうですが、人間にはもともと角があるということです。私たちは自我が思い通りにならなかったらすぐに角を出しています。それが見えるか見えないかです。自分が正しいと思っている間は角は見えません。おとなしい人や気の弱い人は、すぐに角をひっこめるからなかなか見えないのです。仏法を聞くということは、自分の角が見えてくるのです。念仏者とは角が見えた人です。浅原才市さんは「わしは、鬼のような心や、角を描いてくだされ」と画家に申し出たそうです。島根県の温泉津には角の生えた才市さんの絵や像があります。私たちはどこまでも自我中心に生きていますからなかなか角が見えません。真実に触れると、いつも真実に背いている不実の私が知らされます。欲や怒りや愚痴をこぼして角を出している私が知らされます。不思議と角が見えたら怒りが静まるのです。仏法を聞いていきましょう。

at 01:33, 不死川 浄, -

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いのちの行方

 いのちはどこに向かって生きているのか? どこに帰っていくのか? いのちの行方、いのちの帰っていく処、いのちの目的地がわからなければ不安です。わからなければ永遠に迷い続けるのです。それ故に世間では、どこに行ったかわからないから冥福を祈るというのです。冥福とは冥土の幸福を祈るということで、冥土とは真っ暗闇の世界ということです。苦しんでいる私たちに阿弥陀如来は、「我にまかせ、必ず浄土につれて帰り、仏さまに生まれさせます」と念仏となりよび続けていられます。私たちは真理からのよびかけにまかすしかないのです。真理を伝えんがために阿弥陀如来は念仏となりよび続けていられるのです。「弥陀仏は自然(じねん)のようをしらせんりょうなり」です。浄土とは、有るとか無いとかの問題ではないのです。なくてはならない世界なのです。なければ永遠にさ迷い続けるのです。浄土は安心して帰る処であり、いま私をを支え、励まし、苦悩を乗り越えていく力となり、人生の目的地なのです。浄土があれば、「いつ死んでもよし、いつまでも長生きしてよし、おまかせです」と、安心して生きていくことが出来ます。念仏の声を聞きながら、浄土への道、真実への道を力いっぱい歩んでいくのです。

at 16:23, 不死川 浄, -

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念仏は聞くものです

 念仏とは、阿弥陀さまの声を聞くものです。自分の口で称えて、自分の耳で聞くのです。念仏を称えて自分の願いを仏さまに聞いてもらうのではなく、念仏を称えて仏さまの願いを聞くのです。逆なのです。阿弥陀さまが凡夫の私たちをすくにはこれしかないと見抜かれて、みづから南無阿弥陀仏の念仏となり、阿弥陀仏に南無せよ(我にまかせよ)とよびかけてくださっているのです。そのよび声を称え、聞いていくのです。念仏を称え阿弥陀さまの声を聞いてください。阿弥陀さまはその人に応じていろいろとよびかけてくださっています。一人で寂しくしている人には「一人じゃないよ、いつも一緒だよ」。死が怖い人には「心配ないよ、必ずお浄土に連れて帰るよ」。自我いっぱいに生きている人には「また我が出ているよ、我を捨てよ」。人と比べて落ち込んでいる人には「比べなくていいよ、あなたはあなたのままでいい、いつも支えているよ」。辛くて泣いている人には「辛いね」と言って、一緒に泣いてくださっています。念仏を称え、聞いていくことは、いつも阿弥陀さまと共に生きることです。「必ず救う、まかせよ」といつもよび、支え、励ましてくださっているのです。まだ念仏を喜んでない人も、疑っている人も、念仏を称え、阿弥陀さまの声を聞いてください。「信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし」です。

at 14:10, 不死川 浄, -

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自我を破る

 自我が破られないと救いはない。苦しみとは自我が思い通りにならないこと。肉体的にも精神的にも思い通りにならないから苦しいのです。自我が苦しみを生んでいるのです。自我の解放により、閉鎖的な自己を破るのです。ただ自我は自力では破れない、他力でないと破れないのです。卵の殻と同じです。殻の中で雛がどんなに頑張っても殻は破れません。親に抱かれ、親に温められ、親に育てられて、殻が破れるように、阿弥陀さまの慈悲と智慧のはたらきに育てられて我が破られるのです。しかし自我は破れても、自我は無くなりません。「うぬぼれが木の上からポタンと落ちた。そのうぬぼれがいつの間にか木の上にのぼっている」と言われるように、縁次第で出てきます。だから仏法を念仏を身につけていなければならないのです。「また出たな」と気づかされれば自我は破られます。その繰り返しの人生が念仏の人生であり、煩悩と共に浄土への道を歩んでいくのです。

at 18:10, 不死川 浄, -

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自我を破る

 自我が破られないと救いはない。苦しみとは自我が思い通りにならないこと。肉体的にも精神的にも思い通りにならないから苦しいのです。自我が苦しみを生んでいるのです。自我の解放により、閉鎖的な自己を破るのです。ただ自我は自力では破れない、他力でないと破れないのです。卵の殻と同じです。殻の中で雛がどんなに頑張っても殻は破れません。親に抱かれ、親に温められ、親に育てられて、殻が破れるように、阿弥陀さまの慈悲と智慧のはたらきに育てられて我が破られるのです。しかし自我は破れても、自我は無くなりません。「うぬぼれが木の上からポタンと落ちた。そのうぬぼれがいつの間にか木の上にのぼっている」と言われるように、縁次第で出てきます。だから仏法を念仏を身につけていなければならないのです。「また出たな」と気づかされれば自我は破られます。その繰り返しの人生が念仏の人生であり、煩悩と共に浄土への道を歩んでいくのです。

at 18:10, 不死川 浄, -

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よびかけ

 何事も、本当の世界には、よびかけというものがあるのです。ありのまま(如)の世界からのよびかけが、念仏です。 以前、華道の先生が「私の生け花に対する姿勢は、花や草木の声なき声に耳を傾けることに全神経を集中してきました」と述べられていました。画家の方は「花を描いていると花のいのちが語りかけてくる」、版画家は「木の方から彫ってくれとよびかけてくる」、陶芸家は「土の声を聞き、土の声に従えば土の方から作らせてくれる」と話されていました。何事でも本当の世界にはよびかけがあるのです。農家の方は土や野菜の声を、漁師は海や空の声を聞いています。偉大な宗教家や芸術家たちはその声なき声を聞かれた人です。ただ私たち凡夫はなかなか聞こえないから、阿弥陀如来は、声の仏である南無阿弥陀仏となり私たちの口から出てよびかけてくださっているのです。なぜ如来が念仏になり、よび続けていられるのかというと、どこまでも自力では救われない私たちを救うためなのです。

at 14:28, 不死川 浄, -

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川の流れに身をまかせ

 『方丈記』に「行く川の流れは絶えずしてもとの水にあらず」とあるように、私たちの人生も「川の流れのように」行きて帰らずで、過去に帰ることはありません。この世は無常で「時間よとまれ」ということはあり得ません。一瞬たりとも留まることはありません。どんな状態であれ流れ続けているのです。早く流れている人、ゆっくり流れている人、激しく流れている人、さまざまです。『正信偈』に「衆水、海に入りて一味になるが如し」とあります。どんな川の水も、清らかな川の水、濁った川の水、汚い川の水も最後には海に帰り、みな一つの塩味になるということです。私たちの人生も、川の流れのように最後には一味なる海に帰るのです。一味なる海とは無量の寿(いのち)の世界であり、永遠の命の世界であり、お浄土です。悠久の時を生きるのです。ただ川の流れに身をまかせていず、川の流れに逆らって生きているから帰る処がわからないのです。川の流れに身をまかすとは、仏さまにまかすということです。自然(じねん)にいきることです。それが念仏を称えることでもあります。川の流れに身をまかせ、穏やかに安心して生きていきましょう。

at 02:50, 不死川 浄, -

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発信地

 お念仏の発信地はどこまでも阿弥陀さまです。阿弥陀さまが苦悩の有情を、私たちを救うために、私たちの口から出てくださっているのです。その阿弥陀さまの声を聞いていくのです。それを知らずに自分を発信地にしていればいくら念仏を称えても救われません。自分勝手な念仏ですから。阿弥陀さまが苦悩の有情を救うにはこれしかないと見抜いて、自ら声の仏、名前の仏さま、すなわち南無阿弥陀仏(阿弥陀仏に南無せよ、我にまかせよ)となり,苦しい時、辛い時、悲しい時、寂しい時ほど、私たちを救うために私たちの口から「必ず救う」「いつも一緒だよ」とお出ましになっているのです。それが阿弥陀さまの仕事でありご用事なのです。「弥陀の回向のみ名なれば、功徳は十方にみちたまう」です。最初は自分が称えていたつもりでも、阿弥陀さまが称えさせてくださっているのです。それに気づくと阿弥陀さまの声が聞こえてきます。いつも支えてくださってます。いつも導いてくださっています。いつも一緒です。

at 13:35, 不死川 浄, -

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