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あたりまえの不思議

 自分の足では1キロも歩けないが、単車や車でほぼ毎日2・30キロ走っている。新幹線に乗れば、じっとしていても二時間で東京や福岡に着く。飛行機に乗れば半日でアメリカやヨーロッパへ行くことが出来る。自分の足では1キロも歩けない私が、世界中を旅している。 どうして私が、私としてこの世に生まれて来たのか。不思議なご縁としか言いようがない。この私を生き切るしかない。いつ死んでもおかしくないが、いまここに生きている。二十歳まで一緒に暮らした家族は全員亡くなった。私だけが生きている。いつまで生きるのか、どんな死に方をするのか、ご縁次第です。まかせるしかない。  色も形もない仏さまが念仏となって私の口から出てくださっている。不思議です。苦しい時つらい時ほど仏さまが出てくださっている。ありがたいことです。念仏とともに、命ある限り私を生き切ろう。浄土への道を歩んでいこう。

at 03:20, 不死川 浄, -

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如来大悲の恩徳

 浄土真宗の寺院では法要の最後に歌う「恩徳讃」。「如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし、師主知識の恩徳も骨を砕きても謝すべし。」親鸞聖人のご和讃です。浄土真宗とは、「如来大悲のご恩を聞いて、そのご恩に報いて生きていきましょう」いう教えです。これが原点であり、すべてであり、それしかありません。如来大悲の恩徳がわからなければ浄土真宗はわかりません。苦悩の有情を必ず救う、決して見捨てないという阿弥陀如来の大きな悲しみの心を聞いていくのです。阿弥陀如来の大きな悲しみの心が、必ず救うという願い(本願)を起こされ、私たち煩悩いっぱいの凡夫を救うには念仏になるしかないと見抜かれたのです。阿弥陀如来の大きな悲しみの心によって私たち凡夫が救われていくのです。大悲あるがゆえに我生きるを得たりです。ただ現代では、如来大悲のご恩を喜ぶ人が少なくなっています。如来の大悲が伝わりにくい時代になっていますが、いろいろな角度からでも如来大悲を伝えなければなりません。決してブレてはいけないのです。如来大悲の恩徳を喜び、御恩報謝の生活をさせていただきたいものです。

at 16:22, 不死川 浄, -

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人生は旅

 私たちはお母さんのお腹から、オギャーと生れて人生の旅が始まります。いま生きているということは、「旅の途中」です。この旅が長くなるか、短くなるかはご縁次第です。それぞれ引き受けるしかないのです。人は皆いい人生の旅がしたい、いい人生であったと終わりたいと願っています。人生の旅には、さまざまな出会いがあります。嬉しい楽しい出会いより、「人生は苦」と言われるように、苦しい悲しい辛い出会いの方が多いようです。しかし人は苦しい悲しい辛いご縁を通して、学び、気づき、育てられ強くなるのです。「旅は帰る処が目的地」と言われるように、旅の途中でも、苦しいければ苦しい時ほどホテルに帰るとホッとします。日常でも我が家に帰ると安らぎます。落ち着きます。帰る処が無ければ不安ですし、放浪することになります。人生の旅も必ず終点が来ます。何処に帰るのか、帰る処が無ければ不安ですし、死が怖いです。旅に地図が必要なように、人生の旅も道標が大事です。仏法という道標は、足元を照らし、進むべき道を指示し、安心して帰る処を教えてくれています。どんな川も一味なる海に帰るように、いま無量の寿(いのち)に生かされている私たちは、この世の縁が尽きたら一味なる無量寿の世界である「浄土」に帰るのです。人生の旅を終え、仏さまにならせていただくのです。

at 12:27, 不死川 浄, -

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今年の旅

 今年も例年の如く、盆明けに旅に出てきました。私の年間行事になっています。今年はロスアンゼルスの西本願寺別院に参拝し、マイアミ、キユーバへと旅をしてきました。ロスの本願寺は、戦時中迫害された日系人の大きな心の拠り所になっていて、今もリトル東京のはずれに堂々とした伽藍を誇っています。翌日アメリカ最南端のマイアミに行きマイアミビーチやキーウエストに行きました。今回の旅の目的はキューバです。運よくマイアミから飛行機でキューバへ行くことが出来ました。革命後のキューバはどういう国かとても興味がありました。ハバナの街は革命前のクラシックカーが観光業としてたくさん走っていました。医療や教育は無料で、食料の配給もあり、貧しいながらとても平和で、治安がとてもいいです。ただ平均給料は3000円ほどで、貧しくてどこにも行けない、欲しいものが買えないとい声もよく聞きました。これから社会主義国の中で経済自由化がだいぶ進んでいくでしょう。宿泊は、カサという民泊システムで、革命前の豪華なマンションの部屋を借りるのです。何部屋もあり、ホテルよりも割安です。街は公園が多く緑豊かです。ハバナからカリブ海へ行く道も整備され畑も広大で、もっと農業や産業に力を入れたらとても豊かな国になるだろうと感じました。何と言ってもカリブの海は本当に綺麗。海を見ているだけで、心が洗われ、気持ちが和み、やすらぎ、落ち着きました。キューバ五日間の滞在でしたが、とても楽しく、学び、気づきの多い旅でした。

at 01:17, 不死川 浄, -

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無常・縁起・無我

 無常・縁起・無我は仏教の中心思想であり、この世の真理です。すべての存在、すべてのことがこのことに収まります。無常とは、常なるものは無く、すべて移り変わっていることです。縁起は、すべての存在、すべてのことは縁によって起こっていることです。無我とは、永遠に変わることのない実体なるものはないということです。すべての存在は、「色即是空」であり縁により起こって、実体はありませんし、移り変わっています。喜びも、悲しみも、苦しみも、腹の立つことも、自分が起こすのではなく、縁により起こるのです。無常であり、無我なのです。しかし人間は真理を正しく見ることが出来ないから苦しむのです。まず私自身を実体化し、自分のものと思っています。自分の命ではありません。ご縁により生まれ、育ち、死んでいくのです。無常であり、無我なる存在です。苦しみも、縁により起こり、無常であり、無我であり実体はありません。仏教とは、人々の苦の解決を目的としています。如何にして苦しみを乗り越えていくか、苦しみからの出口を教えています。出口が見つかれば楽になります。我を張り、我に執着していないか、すべてのことは移り変わっているのであり、変わらない実体はないのです。たとえば人間は必ず歳をとり、老い、不自由な身になっていきます。その事実を受け止め、その不自由な身の中で、どういのちが輝いてくのか、歳をとることが喜びとなる人生を歩むのです。パラリンピックの選手たち、最初、事故や病気で障害になられた時は相当苦しまれたことでしょう。しかし事実を受け止め、苦しみからの出口を見つけ、見事にいのちを輝かして生きぬいていられます。どんな状況になっても、いのちを輝かして生きていきましょう。

at 01:36, 不死川 浄, -

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今をもらって生きている

 鈴木章子さんの詩に「死に進んで生きているのではない。いまをもらって生きているんだ。今ゼロであって当然の私が今生きている」とあります。生まれたら必ず死にますが、私たちは死に向かって生きているのではありません。明日の命の保証もありません。京アニメ事件のように何が起こるかわかりません。いつ事故や事件で死ぬかもわかりません。今をもらって生きているんです。「色即是空」とは、色(形あるもの)は本来、空(ゼロ)であるが縁があり、今をもらって存在しているということです。今ゼロであって当然の私たちが、はかり知れない無量の寿(いのち)、多くのご縁をいただいて生きているのです。生きているあいだには、良いことや悪いことや、いろんなご縁をいただきます。良い縁も悪い縁もいただきものです。出来るなら悪い縁には会いたくないが、生きている限り必ず会います。しかし辛い・悲しい・苦しいご縁によって人は育てられ、学び、強くなるのです。いつ、何処で、どうなるかわからない命ですが、不思議なご縁でいただいた命、生きている限り悔いなく精一杯生き抜いていきましょう。

at 16:15, 不死川 浄, -

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考えないこと

 パスカルが、人間は「考える葦である」と言っているように、考える生き物ですが、苦しみに直面した時は、考えないことです。苦しい時、落ちこんでいる時は、冷静な判断が出来ません。自分勝手な考えしか浮かばないし、自己弁護、相手への批判、過去へのとらわれ、未来への不安や、さまざまな妄想が浮かんで、真実への気づきはできません。苦しい時考えると、ますます不安になり、考えれば考えるほどドツボにはまり、自分で自分の首を絞めることにもなります。しかし「考えるな」と言われても、いろいろと妄想が浮かんできます。そういう私たちに、いつも「ハカラウナ、マカセヨ」と真実の世界からのよびかけがあります。それが念仏です。人生なるようにしかなりません。どっちに転ぶかわかりませんが、どっちに転んでも大丈夫というものに遇えば安心です。苦しい時は、考えずに推移を見つめ、落ち着いたら、これからどう生きるべきかの「気づき」に、目覚めていくでしょう。

at 15:18, 不死川 浄, -

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喜び・悲しみ・苦しみも、無常

 この世は無常であり、常なるものは何もありません。すべて移り変わっているのです。永遠に変わらない真理です。生まれたからには必ず死にます。「時間よとまれ」ということはありえません。私たちの身体も一瞬一瞬変化しています。時代も刻々と変化しています。変化に対応していかなければ時代についていくことが出来ません。どんな幸せな家庭でもいつか必ず別れが来ます。人間はこの真理を正しく見ることが出来ないのです。何事も実体化してみて変化についていけず苦しむのです。人間関係も、怒りも腹立ちも、無常で、変化しています。自らの心を静かに見守っていけば、怒りは静まっていきます。怒り自身に実体などありません。喜んでいても、嫌なことに出会えば腹が立ちます。悲しみも、時がたてば徐々に薄れてきます。大きな悲しみに会い、なかなか立ち直ることが出いない時でも、悲しみから学び・気づくことがあれば、悲しみが喜びと変わることも有ります。喜び・悲しみ・苦しみも、無常で、実体などないことを知っているべきです。苦しみや怒りから早く立ち直ることが出来ます。

at 15:33, 不死川 浄, -

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人生の目的地をもつ

 私たちはお母さんのお腹からオギャーとこの世に生れてきました。生まれたからにはいつか必ず死ぬのですが、この命はどこに行くのでしょうか?人生の旅を終えてどこに帰って行くのでしょうか?生きとし生けるものの大切な問題です。わからなければ虚しく寂しく死んでいくのです。何処に行ったかわからないので冥福を祈るというのです。はからわず自然のままにまかすと、どんな川も海に帰るように、花や葉や木々が大地に帰るように、いま私たちを生かしている無量の寿(いのち)の世界に帰るのです。いのちとは、永遠に生きているのです。死によって肉体は無くなっても、いのちは永遠に生きているのです。お釈迦さまは私たちに、「彼岸を求めよ」「浄土を求めよ」と勧めてくださっています。それは浄土に生まれることが人生の目的地であるからです。娑婆の利害や対立の苦しみの世界を生き抜き、利害や対立を超えた、いのちが本当に安らぐ安養土であるからです。しかしまだまだ私たちは娑婆に未練があるので、すぐには行きたくないが、人生の目的地を持てば、いつどこで縁尽きようとも、安心して生き安心して命終えることが出来るのです。

at 02:43, 不死川 浄, -

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彼岸を求めよ

 『仏説無量寿経』の中で、釈尊は「度世を願ぜよ」と勧めてくださっています。度世(どせ)ということは、この世の世界を渡り浄土に往生することです。「度世を願ぜよ」とは、「彼岸を求めよ」「浄土を求めよ」ということです。それは人間世界の対立した二元論の世界から、対立を超えた一元論の世界を求めよということです。人間世界はどこまでも我中心で、善し悪し・敵味方・好き嫌い・上下・優劣の対立した世界に生きています。何が善で何が悪かは本当にはわかりません。つきつめてみると利害にとらわれた人間の心が根底にあり、その利己心を離れることが難しい私たちに、利害や対立を超えた彼岸の世界(浄土)を求めよと教えてくださっているのです。彼岸の世界を知らなければ、人間は対立した世界のままで虚しく寂しく死んでいくのです。我の世界を超えた仏さまの世界を、私たちの生きる据わり、拠り所としなければいけないことを示してくださっているのです。

at 02:29, 不死川 浄, -

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