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自然の法則

 仏教では自然(じねん)といいます。自然とは、親鸞聖人は「おのずから、しからしむということで、行者のはからいにあらず」と述べられています。おのずからそうなっているさまで、人間のはからいが、人為が少しも入っていない、あるがままのことです。そして「自然のありさまと申すことをしらしむるを法則という」と教えられています。「念仏を称えれば仏になる」ということは自然の法則なのです。念仏は人間のはからいで、自分の都合で称えるのではありません。真理が如来となり念仏となり私たちの口から出てくださっているのであり、少しも人為が加わっていません。信心も私の心から自発的に起こるのではありません。「信は願より生ずる」と和讃にあるように、如来の願により生まれるのです。花が自発的に勝手に咲くのではない。太陽や水のはたらきで咲くのです。「春になれば花が咲く」こともおのずからしからしむ自然の法則です。太陽や水のはたらきにより芽が出て花が開くように、「念仏を称えれば仏になる」ことは自然の法則です。「信は願より生ずれば、念仏成仏自然なり」です。

at 19:56, 不死川 浄, -

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韓国の花祭り

 5月11日から13日まで韓国の花祭りに行ってきました。日本では4月8日が花祭りですが、韓国では今年は5月12日でした。燃灯祭といい国民の休日であり、韓国仏教界あげての盛大な行事です。あいにく12日は雨で一番のメインである東大門から曹渓寺までの2時間半かけての燃灯行列は中止でした。「皆が一つになって照らす燃灯行列は、皆が主人公です」といわれ、数百、数千の灯の波が天の川のように都心を流れ、誰もが祝祭の主人公になって楽しむことができるといわれる燃灯行列に参加できなかったことは残念でしたが、各地でいろいろな催しが行われ、お釈迦様の誕生をお祝いしていました。韓国ではまだまだ仏教が生きていることを痛感しました。お釈迦様は真理を私たちに伝えんがためにこの世に生まれてくださったのです。いつも無常、縁起、無我という真理に背いて苦しんでいる私たちに、苦悩を除く法を発見され、私たちにこの世に生まれた意味と、生きる喜び、生きる力、安心を与えてくださったのです。

at 19:34, 不死川 浄, -

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念仏は聞くものです

 「仏のみ名を聞く」と何度も言われるように、念仏とは聞くものです。私たちの口から出てくださっている阿弥陀さまの声を聞くのです。「私が申す念仏やけど私でないがや、仏さまのよび声や」(藤本はつ)、「み仏のみ名を称えるわが声は、我が声ながら尊かりけり」(甲斐和里子)。仏さまが私たちの汚い口から出てくださっているのですから、念仏を称えることはとても尊い行為です。阿弥陀さまは、苦しい時、辛い時、悲しい時、腹が立った時、とくに私の口からお出ましになってくだいます。「苦悩の有情」を救うことが阿弥陀さまの仕事であり、阿弥陀さまが念仏(み名、よび声)となり私たちの口からお出ましになってくださっているのです。「いつも一緒だよ」「必ず救う」とよびかけ、ともに泣き、ともに苦しみ、ともに悲しんでくださっているのです。お念仏を称え、阿弥陀さまの声を聞いていきましょう。大きな生きる支えになってくださいます。

at 12:54, 不死川 浄, -

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救い

 阿弥陀如来が、「必ず救う」「必ず浄土へ生まれ仏にする」と誓われているから、私たちは必ず救われるのです。その言葉を素直に受け取らず、何故救われるのかと疑い、ハカライ、分別するから救われないのです。「マカセヨ」「ハイ」ただこれだけです。何故まかせられないのか、何故「ハイ」といえないのか。雨が大地にしみ込むように、お慈悲が我が身にしみ込んでいないからです。我が破れていないからです。自力では助からない私と気づいていないから助からないのです。私が納得して救われるのではありません。その私がとられ、「必ず救う」という阿弥陀如来の言葉が、我が身にしみ込んだら救われるのです。聴聞を重ね、如来の確かな摂取不捨のお慈悲と、どこまでも煩悩具足の凡夫である私を知らせて頂きましょう。もうまかすしかない私が知らされてきます。

at 15:56, 不死川 浄, -

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仏の眼をいただく

 人間はどこまでも自我中心の眼しか持っていません。自我のメガネをなくすことが出来ないから、仏さまの眼をいただかなければならないのです。仏さまの眼は「慈眼をもって衆生を視(み)そなわすこと、平等にして一子のごとし」「老少善悪の人をえらばれず」「みんなちがってみんないい」と言われるように、お慈悲の眼をもって誰をも、かけがえのない一人子のようにみてくださっているのです。人間の眼は、上下・優劣・損得・善悪・勝ち負け・好嫌…と自我のモノサシで比べたり、分け隔てして、争い、迷い、苦しんでいます。この自我のメガネが破れない限り救いはないのです。自我のメガネが破れると、「そのまんまが、尊いのだよ」「私は私でよかった」「命より尊いもの」に気づき、モノサシのない広い大きな世界に出ることが出来るのです。自分では自我の眼を破ることはできないから、仏法を聴聞し、仏さまの眼をいただかなければならないのです。

at 01:10, 不死川 浄, -

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いのちの事実

 「永遠の過去のいのちを受け継いでいま自分の番を生きている。それが私のいのちです、あなたのいのちです」。このたび小学校「道徳」の副読本に全面採用された『いのちのまつり』という絵本に、「ぼうやにいのちをくれた人は誰ね?」「それは…お父さんとお母さん?」「・・・いのちをくれた人をご先祖さまというんだよ」「おばあさん、ぼくのご先祖さまって何人いるの?」「コウちゃんは指を折って数えることにしました」すると・・・2代前で4人、3代前で8人、4代前で16人・・・10代前は1024人、20代前は2097150人。「ずっとずっと宇宙の始まりから、いのちはつづいてきたからねぇ、オバアにわかるのは、数えきれないご先祖さまが誰ひとりかけても、ぼうやは生まれてこなかった、ということさぁ。だから、ぼうやのいのちは、ご先祖さまのいのちでもあるわけさぁ」とありました。私たちのいのちは縦の関係でも横の関係でも、眼に見えない無量の寿(いのち)によって生かされているいのちです。私の命ではないのです。無量寿のいのちです。仏さまのいのちです。それがいのちの事実です。

at 18:15, 不死川 浄, -

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仏のいのち

 いま生きている命は私の命では無く、無量寿のいのち、仏のいのちです。それがいのちの事実です。このいのちの事実に本当に納得出来たら、死の苦しみから解放されます。生死を超えていくことが出来ます。いま命があるのは無量寿のいのちに生かされているからです。衣食住どれほど多くの、目に見えない無量のいのちによって生かされているか。「葉っぱのフレディ」が自分の力で春に芽が出て、夏にしっかりした葉になり、秋に紅葉となり、冬に枯れて散っていくのではく、楓の木のはたらきによるものです。同じように人間も自分の力で変化するのではありません。何もしなくても、寝たきりでも必ず歳をとり死んでいきます。目に見える命は始めと終わりがありますが、目に見えない寿(いのち)は始めも終わりもありません。信心とは、私の命では無かった、無量寿仏である阿弥陀仏のいのちをいま私が生きていると気づくことです。無量寿とは永遠のいのちであり、信心をいただいた人、いのちの事実に気づいた人は、死なないいのち、永遠のいのちをいただいて生きているのです。そしてこの娑婆に縁尽きた時、いのちのふるさとである無量寿の世界である浄土へ帰っていくのです。

at 16:19, 不死川 浄, -

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我を破る教え

 仏教は我を破る教えです。我が破られなければ救いはないのです。人間は生まれた時、赤ちゃんの時はいのちそのものです。自分と他人の垣根や壁がないし、分別もハカライもなく仏さまのような存在です。ところが自我が芽生えてくると、いのちを私有化し自分の命にしてしまうのです。自分の命にすると我が身が一番かわいいし、自分と他人の垣根や壁を作り、どこまでも自分中心に生き、仏さまから遠ざかるのです。この我の世界を娑婆とか世間と言います。人間はこの我の世界で損得・善悪・上下・勝ち負けを分別し、計算し、争い迷い、苦しみながら生きているのです。仏教は娑婆(思い通りにいかない世界)を出ることを目的としています。自分の力で我の世界を出るのが「自力の教え」です。仏さまの力で我の世界を出るのが「他力の教え」です。自力で我を破ることを悟りと言います。ところが私たち凡夫は死ぬまで自力では我が破れないのです。卵の殻と一緒です。どんなに頑張ってもヒナは自分では殻は破れません。親に抱かれ、温められ、育てられて殻が破れて誕生するように、仏さまの慈悲と智慧のはたらきに抱かれ、温められ、育てられて、「小さな我の世界から、もっと広い大きな世界に出ていきなさい」という仏さまのよび声である念仏により我が破られるのです。「念仏とは自我崩壊の音なり」と言われるように、私の我の壁が破れる音こそが念仏であるのです。

at 14:51, 不死川 浄, -

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真理の言葉

 念仏がわからないという人や、念仏を誤解している人がまだまだとても多いです。念仏とは真理の言葉、仏の言葉です。『聖書』に「はじめに言葉ありき」とあるように、人間を救うために真理が言葉となって顕れてくださっているのです。『歎異抄』に「火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもってそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とあるのは、念仏が真理の言葉、仏の言葉であるからです。人間の言葉ではありません。人間の言葉にまことはありません。真理が阿弥陀如来となり、阿弥陀如来が念仏となって、「阿弥陀仏に南無せよ」「我にまかせよ、必ず救う」とよび続けてくださっているのです。人間はいつも自我中心に生き、真理に逆らい、真理に背いて生きています。それ故に真理の方から来てくださり、真理が如来となり、如来が、「真理にめざめよ」とよび続けてくださっているのです。いつでも、どこでも、どんなときでも、「あなたと一緒です」「決して見捨てない」「必ず仏にする」と私たちの口から出てくださっているのです。念仏を称えて生きていきましょう。

at 16:17, 不死川 浄, -

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本当のご利益

 世間一般では、自我の満足・自我の肯定をご利益と思っていますが、本当のご利益は「自我の否定」なのです。多くの人は願いを叶えてもらうために仏や神に祈願して、願いが叶うこと、自我が満足することをご利益と思っています。確かに願いが叶うことは嬉しいけど、願いが叶う保証はないし、叶ったとしても一時的であり真の満足ではありません。本当のご利益とは、自我が破れ、狭い我の世界から、広く大きな「我を超えた世界」に出遇うことです。人間の思考では自我中心に生きているため、我の枠の外に出れないのです。そのため「我を超えた世界」があることを知らず、我の枠の中で損得・善悪・勝ち負けを小賢しく計算しながら生きているのです。仏教は自我の世界を「娑婆」と言います。娑婆とは思い通りにならない世界という意味です。そして思い通りにならないことが苦しみなのです。それ故に娑婆を出ることを目的としています。教えを聞かなければ「我を超えた世界」があることに気づかないのです。井の中の蛙のままで大海があることに気づかないのです。大海に気づいて自分が井の中の蛙であった、我の中の枠の中でしか生きてなかったことに気づくのです。我が破れるといのちが喜びます。生死を超えていくことが出来ます。これこそが本当のご利益です。

at 10:58, 不死川 浄, -

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