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彼岸を求めよ

 『仏説無量寿経』の中で、釈尊は「度世を願ぜよ」と勧めてくださっています。度世(どせ)ということは、この世の世界を渡り浄土に往生することです。「度世を願ぜよ」とは、「彼岸を求めよ」「浄土を求めよ」ということです。それは人間世界の対立した二元論の世界から、対立を超えた一元論の世界を求めよということです。人間世界はどこまでも我中心で、善し悪し・敵味方・好き嫌い・上下・優劣の対立した世界に生きています。何が善で何が悪かは本当にはわかりません。つきつめてみると利害にとらわれた人間の心が根底にあり、その利己心を離れることが難しい私たちに、利害や対立を超えた彼岸の世界(浄土)を求めよと教えてくださっているのです。彼岸の世界を知らなければ、人間は対立した世界のままで虚しく寂しく死んでいくのです。我の世界を超えた仏さまの世界を、私たちの生きる据わり、拠り所としなければいけないことを示してくださっているのです。

at 02:29, 不死川 浄, -

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彼岸を求めよ

 『仏説無量寿経』の中で、釈尊は「度世を願ぜよ」と勧めてくださっています。度世(どせ)ということは、この世の世界を渡り浄土に往生することです。「度世を願ぜよ」とは、「彼岸を求めよ」「浄土を求めよ」ということです。それは人間世界の対立した二元論の世界から、対立を超えた一元論の世界を求めよということです。人間世界はどこまでも我中心で、善し悪し・敵味方・好き嫌い・上下・優劣の対立した世界に生きています。何が善で何が悪かは本当にはわかりません。つきつめてみると利害にとらわれた人間の心が根底にあり、その利己心を離れることが難しい私たちに、利害や対立を超えた彼岸の世界(浄土)を求めよと教えてくださっているのです。彼岸の世界を知らなければ、人間は対立した世界のままで虚しく寂しく死んでいくのです。我の世界を超えた仏さまの世界を、私たちの生きる据わり、拠り所としなければいけないことを示してくださっているのです。

at 02:29, 不死川 浄, -

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命はどこに行くのか

 著名人が亡くなると、テレビや新聞のマスコミ報道では決まって「天国へ行かれました」と報道しているのを目にします。いままで一度も「浄土に往生されました」「浄土へ帰られました」という報道を目にしたことはありません。日本人には天国という言葉が浸透して、浄土という言葉は少しも浸透していないということです。日本では浄土真宗の寺院が一番多いし、布教伝道にとても力を入れているのに伝わっていないのです。それほど浄土ということを伝えることが難しいのか、私たち僧侶の怠慢か。いままで映画やテレビドラマで人が亡くなると仏教で葬儀をしながら「天国へ」と放送していました。マスコミの影響はとても強いですのできちんと伝えて欲しい願っています。どんな川も、美しい清流の水も、汚れた川の水も、みな塩味である一味平等なる海へ帰ります。これは自然の道理です。仏教とは真理、自然の道理に従って生きていきましょうという教えです。私たちの命は自分のものではありません。無量の寿(いのち)に生かされている命です。娑婆の縁が尽きると、いま私を生かしてくれている一味平等なる無量寿の世界(浄土)へ帰るのです。これは自然の道理です。しかし人間は自我に執着し真理に背いて生きているので死が怖いのです。それ故に真理の方から念仏となり、「我にまかせよ」とよび続けてくださっているのです。仏のみ名を聞き、阿弥陀仏にまかせれば、自然に無量寿の世界である浄土に生まれるのです。

at 17:51, 不死川 浄, -

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念仏が出る

 念仏が私の口から出る。すごいことです。私の口から仏さまが出てくださるのです。なかなか出るものではありません。念仏がどこまでも我中心に生き、恥ずかしいことも言う私の口から現れてくださるのです。不思議です。嬉しいです。安心です。心が落ち着きます。私の口から出てくださるまでには、長い長いお育てがありました。私にお念仏を伝え、勧めててくださった方々、眼に見えない無量の寿(いのち)のはたらきのおかげです。自分勝手な念仏なら、いつでも言おうとすれば言えます。でもそこには何の安心も喜びもありません。しかし弥陀の回向の念仏は、阿弥陀如来自身が人間の本質を見抜いて、人間を救うには念仏になるしかないと気づかれ、念仏の中に如来の功徳をすべてこめて、私たちの口から出ようとはたらいてくださっているのです。でもなかなか出ません。疑いの心、自力の心、自我の壁が厚く、我の壁が破れなければ念仏は出ません。阿弥陀如来はけっして見捨てられません。いつでも・どこでも・どんな時でも我の壁を突き破り、私の口から出ようとされています。機が熟し念仏が出たということは、仏さまが我の壁をつき破り私の口から出てくださったということです。これからの人生、喜びも悲しみも阿弥陀さまとずっと一緒に生きるのです。それが念仏者の生き方です。

at 01:02, 不死川 浄, -

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ご利益とは

 大切な人が重い病気になった時、病気平癒を願って切実な思いで必死に祈願している姿や、我が子の病気回復を願って一生懸命お百度参りをしている姿には胸打たれます。じっとしてはいられず、せずにおれないのでしょう。出来るものなら治ってほしいと誰もが思うでしょう。しかし冷たいようですがどんなに必死に祈願しても、助かる時は助かるし、助からない時は助からないのです。助かる縁があれば助かるし、縁がなければ助からないのです。仏とは人間の願いを叶える存在ではありません。仏とは、真理に覚めた人(覚者)であり、仏教とは、真理に目覚めた仏の教えを学び、聞いていきましょうという教えです。仏とは人間の願いを叶える存在ではないが、大きな悲しみの心で、いつも私たちの悲しみや苦しみを見抜き、ともに悲しみ苦しんでくださり、必ず救わずにはおかないと、念仏となり「我にまかせよ、必ず救う」と叫び続けていられるのです。仏の願いが届くと、仏のよび声が聞こえると、どっちに転んでも、どんな状況になっても安心して生きぬくことが出来るのです。安心して生き、安心して死んでいける。それが本当のご利益です。

at 16:30, 不死川 浄, -

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ご利益とは

 大切な人が重い病気になった時、病気平癒を願って切実な思いで必死に祈願している姿や、我が子の病気回復を願って一生懸命お百度参りをしている姿には胸打たれます。じっとしてはいられず、せずにおれないのでしょう。出来るものなら治ってほしいと誰もが思うでしょう。しかし冷たいようですがどんなに必死に祈願しても、助かる時は助かるし、助からない時は助からないのです。助かる縁があれば助かるし、縁がなければ助からないのです。仏とは人間の願いを叶える存在ではありません。仏とは、真理に覚めた人(覚者)であり、仏教とは、真理に目覚めた仏の教えを学び、聞いていきましょうという教えです。仏とは人間の願いを叶える存在ではないが、大きな悲しみの心で、いつも私たちの悲しみや苦しみを見抜き、ともに悲しみ苦しんでくださり、必ず救わずにはおかないと、念仏となり「我にまかせよ、必ず救う」と叫び続けていられるのです。仏の願いが届くと、仏のよび声が聞こえると、どっちに転んでも、どんな状況になっても安心して生きぬくことが出来るのです。安心して生き、安心して死んでいける。それが本当のご利益です。

at 16:30, 不死川 浄, -

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第二の矢は受けず

 生きていれば必ず苦しみに会います。「人生は苦なり」と言われるように、仏教では生・老・病・死と、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦の四苦八苦を教えています。また一寸先は闇でいつどこで苦しみに会うかわかりません。誰にも避けられない苦しみは第一の矢を受けることです。第一の矢は誰でも受けます。問題は第二、第三の矢を受けないことです。多くの人は苦しみが生じると、その事実をそのまま引き受けることが出来ず、愚痴や怒りや我執に振り回され、苦しみを深めているのです。その状態では冷静な判断が出来ず、考えれば考えるほど苦しみの深みにはまって、逆に落ち込んでいくのです。それが第二、第三の矢を受けることです。苦しみが生じた時、考えないことです。計らわないことです。過去や未来にしがみつかないことです。そのままの事実を引き受け、その事実に気づくだけです。外側の苦しみはさまざまな縁によって起こるが、内側の苦しみは自分自身が作っているのです。身体は不自由になっても、心は不自由になってはいけないのです。身体は苦しんでも、心は苦しんではいけないのです。心がリラックスできれば、第二の矢を受けずに、冷静にこれからどう生きるかを考えられるのです。

at 16:09, 不死川 浄, -

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古希に想う

 6月23日に古希になりました。よくぞここまで生きてこれたという感謝の思いと、まだまだこれからであるという思いが交錯しています。私の命ではありません。生かされている命ある限りは精一杯生きていこうと思っています。余生(あまった生)ではありません、与生(あたえられている生)です。身体は色々と不自由な身になってきましたが、気持ちはますます自由に若く(?)なっている気がしています。古希という言葉は、中国唐代の詩人杜甫の「人生70年古より稀なり」という詩が由来です。唐の時代では70歳はまれだったでしょうが、現代では日本人で3千万もいるそうです。少しも稀ではありません。稀という字は常用漢字になく、希という字がもちいられ、希という字は希望を連想し、長寿を希望する思いから施用されるようになったそうです。スポーツ選手の円熟期は20代・30代で、医者は40代・50台で、坊主は70代・80代だそうです。この説によれば私の人生はこれからです。一生青春・一生勉強で生きていこうと思っています。このブログも毎月5回のペースで10年以上続いています。命ある限り続けていこうと思っています.これからも何卒よろしくお願いします。合掌

at 15:32, 不死川 浄, -

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心は自由に

 歳をとるということは、いろいろなものを失ってきます。髪や歯を失い、眼もかすみ耳も遠くなり、若さや体力を失い、ひざや腰が痛くなり不自由な身になってきます。それは自然な姿でもあります。大切なことは「身体は不自由になっても、心は不自由になってはいけない」のです。現実を否定してそのままを認められなければ、心まで不自由になってきます。愚痴や腹立ちの日暮しになり、老いを楽しむことが出来ません。身体は苦しんでも、心まで苦しむことはないのです。無いものを欲しがるより、有るものを喜ばしてもらいましょう。無くなったものにとらわれ、執着し、欲しがるより、いま有るものを大事にし現実を受け入れて、どう楽しく生きることが出来るかに気づくのです。気づけが心が楽になります。気持ちがリラックスします。逆縁を生かして、強く生きている方はたくさんいられます。苦しい時あまり考え込まないことです。考えれば考えるほど深みにはまり落ちこんでいきます。自分自身で苦しみを深めていくだけです。「はからうな、まかせよ」「握りしめている手を離せ、まかせよ」と仏さまは、いつもよびかけてくださっています。そのままを受け入れて、大いなるいのちのはたらきにまかすことができれば、いくら不自由な身になっても、老いを面白く楽しく生きることが出来ます。

at 18:49, 不死川 浄, -

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事実を引き受ける

 よくお年寄りの人で、「歳をとることは不自由だし辛いです」「歳は取りたくないものです」という言葉をよく聞きます。過去の元気だったことにとらわれて、老いの事実を引き受けることが出来ないから苦しいのです。老いだけではなく、病でも、障害でも、いろいろな問題で苦しんでいる人も同じです。事実に気づき、受けいることが出来たら自由になることが出来るのに、事実を引き受けることが出来ないから苦しいのです。「なぜ私がこんな目に合うのか」と事実を引き受けられず、自分の不安な思いに縛られ、その不安の妄想の奴隷となり、思いつめれば自殺することも有ります。事実に気づいていないのです。「気づき」より「心配な思い」が先走っているのです。事実に気づけば、いま私がどう生きていけばいいのかという方向が見えてきます。自分の思いに縛られ、執着するのではなく、その思いを捨て、握っている手を離し、大いなるいのちのはたらきにまかすのです。そうすれば老いも不自由な身も楽しむことが出来ます。雨が止めば自然に青空が出てきます。暗い闇夜も朝になれば明るくなります。寒い冬も必ず暖かい春が来ます。

at 17:45, 不死川 浄, -

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