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川の帰る処

 美空ひばりさんが「川の流れのように」をレコーデイングしたときに、「この曲はいいね」と言って、「人生っていうのは真っ直ぐだったり、曲がったり、流れが速かったり遅かったり、本当に川の流れのようなものよ。でもね、最後はみんな同じ海に注ぐのよ」と話されたそうです。川の帰る処、行き着くところはみんな海です。きれいな川も、汚い川も、どんな川もみんな海に帰り同じ一味(塩味)になります。『正信偈』に「凡人も聖人も罪人もひとしく信を得れば、どんな川の水も海に入れば一つの味になるが如し」とあります。この言葉は無量寿の世界(浄土)を海にたとえているのです。一味である海(浄土)は、上下・優劣・貴賤の差別がなく、比べなくていい世界、まったく平等の世界です。いのちが安心する安養土であり、その人がその人のままいのち輝く無量光明土です。どんな川も一味なる海に帰るように、私たち人間も、自然のままだといま私たちを生かしている無量寿の世界(浄土)へ帰るのです。しかし人間は自我中心に生き、ハカライ、分別し、自然の法則に逆らって生きているので帰る処を見失っているのです。それ故に阿弥陀如来が念仏となり、「必ず連れて帰る、まかせよ」とよび続けてくださっているのです。「川の流れのように、おだやかにこの身をまかせ」、念仏とともに浄土への道を安心して歩んで生きましょう。

at 17:23, 不死川 浄, -

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生きる意味の転換

 アウシュビッツ強制収容所における体験から生まれた、フランクルの『夜と霧』の中で、「必要なことは生きる意味についての問いを180度方向転換することだ」と述べています。「生きていることに何も期待が持てない」と人生に絶望している人間がいるが、私たちは生きることから何かを期待するのではない。「もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、私自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのである。生きることは日々、そして時々刻々問いかけてくる。私たちはその問いに答えを迫られている。生きるとは、生きることの問いに正しく応える義務を引き受けることに他ならない」と教えています。私たちが人生に何かを求めたり期待するのではなく、反対に人生が私にどう生きるかということをつねに迫っているのです、問いかけているのです。どういう状況にあっても、絶望の中にいても、そこからいま私がどう生きるかが問われているのです。生きるということは私自身が、その問いの前に立っていることを知るべきなのです。その問いを引き受け、その問いに応えていかねばならないのです。

at 02:30, 不死川 浄, -

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まったく私なし

 私が仏さまを信じるのではありません。私が念仏を称えるのではありません。仏さまが信じさせてくださるのです。仏さまが念仏を称えさせてくださるのです。まったく私なしです。私が入っていれば浄土真宗の信心でも念仏でもありません。自分勝手な信心であり念仏です。すべて阿弥陀さまのはたらきによる信心であり念仏なのです。何故かというと阿弥陀さまが、自我・我執が無くならない人間の器量を見抜かれているからです。私自身本当に自我にとらわれることが多いです。たとえば車に乗っている時、狭い道で対向車が来た時、私が避けてあげると「私がしてあげた」という気持ちがどこかあります。そのようなことが日常生活の中で多くあります。自分が「ええもん」になりたいという根性は無くなりません。若いころより、そういう気持ちは無くなってきたと思っていましたが、阿弥陀さまの心に触れるたび、誤魔化さず気づかされるようになってきました。そういう私たち煩悩いっぱいの凡夫を無条件で救うために、阿弥陀さまの心が私の中に届くことが信心であり、阿弥陀さまのよび声が私の口から出てくださることが念仏です。信心も念仏も自分の我は入っていないのです。まったく私なしです。昭和を代表する日本画家、東山魁夷さんの言葉です。「自分の我があったら、本当に美しい絵は生まれません」

at 14:21, 不死川 浄, -

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マカセヨ、ハイ

 阿弥陀如来は、苦悩の有情を救うにはただ念仏しかないと見抜かれて、私たちに「我にまかせ、必ず救う」と念仏となり絶えずよび続けていられます。このよび声が我が身に届き「ハイ」と応えることが信心であり、救われるということです。しかしなかなか「ハイ」とはいえません。「マカセヨ、ハイ」の間に「疑い」があるからです。疑いが晴れなければ「ハイ」とは言えません。「疑い晴れたが信心です」。どうすれが疑いが晴れるのか? それには阿弥陀さまがなぜ念仏となられたのかという願いと、私たちが生死の苦海に久しく沈んで、自力では救われないという事実を知らなければなりません。たとえば台風で川が氾濫して住人が木につかまり助けを求めている時、救急隊員が救命ボートで助けに行き「我にまかせ、必ず救う」と手を差しだせば、かならず「ハイ」というでしょう。自力では救われない、「まかす」しかないという事実を知っているからです。同じように阿弥陀さまの「我にまかせ」というよび声に「ハイ」と応えていけば必ず救われるのです。安心、喜びが生まれるのです。「生死の苦海ほとりなし 久しく沈める我らをば 弥陀弘誓の船のみぞ 乗せて必ず渡しける」(親鸞聖人)

at 00:41, 不死川 浄, -

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いつも一緒

 信心とは、阿弥陀さまが私の中に入ってくださることです。仏さまと同居することです。仏さまとずっと一緒に生きるのです。信心は私が信じた心ではありません。私が信じた心ならすぐに離れますが、阿弥陀さまの心ですから、一度入るともう二度と消えることはないのです。決して離れることはないのです。いつも仏さまと一緒です。日々私が忘れていても仏さまは忘れず、いつも気づかせ支えてくださっているのです。自分で信じたりつかんだ信心ではないから、捨てたり打ち消すことはできません。念仏も私が称えているのですが、阿弥陀さまのはたらきで称えさせていただいているので、まったく私なしです。信心も私が信じていますという信じる私が入っていれば信心ではないのです。まったく私なしです。信心(仏のまことの心)をいただいても、私自身はどこまでも煩悩いっぱいの凡夫です。縁に触れ怒りや欲や愚痴が出ます。その煩悩の火を燃やしながら阿弥陀さまに支えられ気づかされ注意され、いつも一緒に浄土への道の人生を歩ませていただいているのです。

at 18:54, 不死川 浄, -

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使い

 私は布教使として、もう何年もお寺や老人ホーム等で話をさせて頂いています。布教師ではありません。どこまでも阿弥陀如来の使いとして話させて頂いているのです。阿弥陀如来の願いを正確に間違いなく解り易く伝えているか、伝わっているかとても疑問です。どうすれば現代の人々に伝わるか日々葛藤です。どんなに話が上手で感動を与えても阿弥陀さまの願いを伝えなければ法話ではありません。自分の願いや思いを話すのではありません。道徳や人情話や世間話をするのではありません。どこまでも阿弥陀さまの使いです。阿弥陀如来は苦悩の有情を一人も残さず必ず救うという本願を起こし、私たち煩悩具足の凡夫を救うには「ただ念仏」しかないと見抜かれ、阿弥陀さまみずから念仏すなわち南無阿弥陀仏となられました。なぜ阿弥陀さまが念仏になられたのか? なぜ念仏でなければ救われないのか? 人間にとって本当の救いとは何か? それには自分自身が念仏に生きなければ伝わりません。これからも阿弥陀さまの使いとして、阿弥陀さまの願いを、念仏の真意を伝えていきたいと願っています。

at 20:12, 不死川 浄, -

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身が喜ぶ

 仏法は、頭や心で聞くのではない。身で聞くのです。身で聞かないと、身につかないし、生きる力、生きる支えになりません。たとえば火は熱いと頭で知っていますが本当にはわかっていないのです。身に触れて初めて熱いとわかるのです。仏法は我が身を通して聞かなかったら何十年聞いても身につきません。頭や心はコロコロ変わり、嘘をつき、飾り、誤魔化しますが、身は正直です。嘘をつきません。美味しいものを食べたり、いい音楽を聞くと身が喜びます。暑い日に涼しい所に行くと、寒い日に暖かい部屋に入ると身が喜びます。頭や心では大丈夫と思っていても身が緊張していることや、わかっちゃいるけどやめられないことはよくあります。そし人間は身に響かないと行動しない生き物です。仏法が我が身に響くと身が喜ぶのです。身が安心するのです。お念仏を喜んでいる方は「お慈悲は温いです、暖かいでいです」と話されています。「み仏のみ名をおのずとよばしめて、安すけき心にじませたまふ」(藤原正遠)とあるように、「いつも一緒だよ」とよび続けているお念仏が、安らかな心を我が身ににじませてくださるのです。

at 18:01, 不死川 浄, -

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病気になればこそ

 病気になればこそ気づくこと、わかることもあります。健康の有難さ、普通に歩けることの喜び、生かされていることの不思議。一週間前の雨の日、単車がスリップして倒れた時右ひじを打った。なかなか痛みが引かないので膝の検査の時に診てもらうと骨折していた。いまはギプス状態です。利き腕である右手が使えないことはとても不便です。でも新しい発見も多い。どうしたら食事が出来るか、どうすれば字が書けるか、風呂が入りやすいか、考えたらなかなか楽しいです。左手だけでも十分生活できる。病気に甘えず、愚痴を言わず、現実を受け止めると新しい発見も多い。パラリンピックの選手たちがよく病気になって良かったと話していました。これは競技に集中できるものに出遇えたからです。病気になればこそ、老いたからこそ、死が近づいたからこそ、必ず気づくことも有ります。そうすると現実を受け止めることができます。「歳をとることも喜びだ、今までわからなかったことがわかってくるから」「人生に余生なし、死ぬまで育ちざかり」です。

at 16:42, 不死川 浄, -

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人生の目的地

 人生の目的は考えても、人生の目的地について考えている人は少ないです。目的地がなければどこに行くのでしょう? 人生のゴールである目的地があるかないかによって人生は大きく変わっていきます。なければ人生の最後は不安であり、真っ暗闇です。人間が誕生したということは飛行機に乗った状態です。いま生きているということは飛行中です。飛行機の目的は無事に目的地に着くことです。目的地に着かなければ大変です。行方不明か墜落です。科学や医学や政治や経済は、いかに速く、長く、快適に、安全に飛ぶかという飛び方だけを問題にして、目的地に着いては教えてくれません。 たとえば「月の光もない真っ暗闇の中、一歩間違えれば谷底へ転がり落ちそうな険しい山道を、重い荷物を背負って歩いている。不安とおびえで胸が苦しく、荷物がいっそう肩に食い込んでくる。そこへ雲間から月の光が射して、遠くに家が見える。そうか、あそこまで行けばいいのか、とその人は気を取り直してまた歩み続ける。道が歩きやすくなったわけでも、距離が短くなったわけでもない、荷物が軽くなったわけでもないのに、心はそれまでとは違っています。目的地が見え、誰か待つ人がいる。それまでとは違って足取りも軽くなる」ように、目的地があれば生きる方向が決まり、苦しみを乗り越えていく力が湧いてきます。「重荷背負うて山坂すれど、ご恩思えば苦にならず」です。目的地は安心していのちの帰る処であり、私を待ってくれているいのちの故郷です。いま私を生かさせてくれている無量の寿(いのち)の世界です。光の国である浄土への道を命ある限り力いっぱい歩ませていただくのです。

at 18:11, 不死川 浄, -

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死にたくない人へ

 この世に生まれたからには必ず皆死ぬんだよ。早く死ぬか遅く死ぬかの違いだけだ。もちろん健康で長生きしたいけど自分の意志ではどうにもならない。若くして死ぬ人も多い。与えられたものは受け止めるしかないんだ。僕の妻は48歳で亡くなったけど、亡くなる前、「先にお浄土へ行って待っているから、あとでゆっくり来てください」と言っていた。たまには早く会いたいとも思うが、まだまだ未練があるから、ゆっくりゆっくり行こうと思っている。でもまた会える世界があるんだよ。君も先に行って待っていてくれ。またお浄土で会おう。もともと自分の命では無いのに、自分の命と思っているから苦しいんだよ。はかり知れない無量の寿(いのち)によって生かされている命なんだ、縁が来たら無量寿の世界である浄土に帰るんだよ。浄土とはいのちのふるさとなんだ。忘れがたき故郷だよ。いつでも僕たちを待ってくれているところであり、いま僕たちを支え、励ましてくれているところであり、いつか必ず帰っていくところなんだ。帰る処を見失っている僕たちに、無量寿の世界から阿弥陀如来という仏さまが念仏となり、いつも「我にまかせ、必ず浄土へ連れて行き仏にする」とよびつづけてくださっているよ。念仏にまかすしかない。念仏があるから安心して命終えてゆけるよ。浄土とは、有るとか無いとかという問題ではないんだ、場所の概念ではない。いま生きている僕たちを支えてくれるところであり、なくてはならない世界なんだ。本当にお浄土があって良かったと思っているよ。

at 18:32, 不死川 浄, -

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