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ライオンのおやつ

 先日車を運転しているとき、ラジオのスイッチを入れると本の紹介の番組をしておりました。その中で、小川糸著『ライオンのおやつ』という本がお薦めですという話を聞き、読んでみたいと思い、帰ってすぐにアマゾンに注文しました。翌日に届きすぐに読ませていただきました。33歳の海野雫という女性が末期がんを宣告され、残りの人生を穏やかな瀬戸内のレモン島と呼ばれている島の「ライオンの家」というホスピスで過ごし、そこでいろいろな人との出会いや体験を通して安らかに命を終えていく話でした。この世に生まれたからには、必ず死を迎えます。死をどのように迎えるかということを考えるに、とてもすぐれた作品でした。「ライオンの家」という名の由来は、百獣の王であるライオンは、敵に襲われる心配がなく安心して過ごしているように、何も怖れることなく安心して最期を迎えてほしいという願いから命名されたそうです。どう死を迎えるかは、今をどう生きるかです。安心して生きることにより、安心して死ぬことができる。生まれたということはローソクの火が付いたこと、火が消えることが死です。この火は風が吹けばいつ消えるかわからない。しかしローソクは命をすり減らしながら、他の誰かの光になっている、生きることは誰かの光になること。光になった人は死んでも光となって多くの人を照らすのです。この小説の登場人物がみな個性的で魅力的です。特に管理者であるマドンナ、いつも冷静で入居者を献身的にお世話をし的確なアドバイスを与えていました。私は作者の小川糸さんに実際に瀬戸内のレモンの島で「ライオンの家」を作ってもらい、そこでマドンナをやってもらいたいと思いました。きっと多くの人が殺到することでしょう。この本を読み終えて、またゆっくりと味あって読んでみたいと思いました。お薦めです。ぜひ読んでください。

at 18:02, 不死川 浄, -

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赤色赤光

 先日歌手の槇原敬之さんが覚醒剤取締法違反で逮捕されました。二度目の逮捕です。一度目は1999年に逮捕され、謹慎中に仏教との出会いを通して「世界に一つだけの花」という曲を作りました。お釈迦様の誕生にちなんだ「天上天下唯我独尊」からタイトルを考え、『阿弥陀経』の中にある「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」の言葉が歌詞の元になっていると語っていました。彼が作った歌詞を見ると仏教的要素がとても感じられます。今回の逮捕はとても残念です。人間というものの弱さと覚醒剤を止めることの難しさが知らされます。一度味を覚えたら、ほんのちょつとしたキッカケで手を出してしまう恐ろしさ、頭では悪いと思っていても、身が反応してしまうのです。でもこれで人生が終わったのではありません。また復帰してほしいです。今回の逮捕をご縁として、いのちを見つめ、人間を見つめ、生きる意味を見つめ、もっともっといい曲を作って欲しいです。

at 18:57, 不死川 浄, -

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人間とは

 人間とは、「まず自分があって」という自分中心の見方・考え方をしています。それ故にいのちの事実を見失っているのです。ご縁によっていま私が生かされているのに、ご縁の前にまず私があって、私がご縁によって生かされていると思っています。だから良い縁が欲しくて、悪いご縁は欲しくないのです。良いことも悪いこともご縁であり、いただきものであり、受け止めなければいけないのに、自分の都合の良いことだけを喜び、都合の悪いことは喜べないのです。本当に身勝手なものです。自分にとって好ましい、意味のあるものだけを認め、自分にとって意味のない、嫌なものは切り捨てていないでしょうか。いまそういう事件がとても多いです。私たちの命も、長い長い過去の命の歴史を受け継いでいま生かされています。また多くの命をいただき、多くの命に支えられ生かされています。しかしそのいのちの事実を見失い、「まず私があって」という立場に立ち、より快適に、合理的に生き、人と比べ、勝った負けた、損か得か、上か下かという生き方をしています。いのちはつながりの中でしかないのです。縁によって私があるのであり、私が縁によってあるのではないのです。自分にとって不都合なことの中に学ぶことも多いです。いまこんなにも多くのいのちのつながりの中で自分の人生が支えらえているんだということに気づいていくことが大切なことではないでしょうか。

at 18:39, 不死川 浄, -

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人間の原罪

 原罪というと『聖書』の中でアダムとイブが、決して食べてはいけないといわれていた「善悪の知恵の木の実」を食べたことで、何が善か悪かを自分で決めるという「自らを神」とする神への反逆の罪であり、その罪は子孫である人類全体が継承していると教えられています。原罪とは、もともと人間では誰でもが持っている罪への傾向性であり、『聖書』の中でとても秀でた「エデンの園の物語」として説いています。仏教でいうならば、原罪とは自我です。自我の芽生えより「真理に背いて生きる」ようになります。命を自分の所有物と思うようになり、我が身がいちばん可愛くなり、どこまでも自我中心に生きることになります。苦しみとは、自我が思うようにならないことをいいます。仏教は自我の壁を破り、広い大きな世界に出ることを教えています。 キリスト教では決して自力では救われないと教えています。神からの福音・恵みに同意することにより、神への罪から解放されるのです。自我も死ぬまでなくなりません。自力で自我の壁を破ることができないので、阿弥陀如来が念仏となり、自我の壁を破ってくださるのです。    

at 00:46, 不死川 浄, -

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名の力

 「わが弥陀は名をもって人々を救う」といわれるように、阿弥陀如来は、南無阿弥陀仏という名前・名号となって、人々を救う方法を発見されたのです。なぜ名前の仏になられたのか、名となるしか煩悩いっぱいの凡夫を救う方法がなかったのです。名の中に仏の功徳をすべて込めて、「われにまかせ、必ず救う」とよび続けていられるのです。ちょうど赤ちゃんが生まれたとき、お母さんが我が子に「お母さんですよ」とお母さんのすべての愛情をこめて呼びかけているのと同じです。もともと名前にはすごい力があるのです。人間生まれた時も、死ぬ時も名前しか呼びません。名の中にその人のすべてが込められています。名を呼ぶということは、大きな生きる力になります。槇原敬之さんの「remenber my name」という歌詞に「僕の名前を呼べば孤独は君に近づけない。君は心の中で僕の名前を大きな声で呼べばいい。もし君の心が悲しみの海の底に沈むなら、僕は腕利きのダイバーになってどんな深くへも見つけに行くよ」 またドリカムの「何度でも」という歌詞の中に、「何度でも何度でも何度でも立ち上がり呼ぶよ、君の名前声が涸れるまで」とあります。阿弥陀如来は、名の仏となって「何度でもわが名を呼んでくれ、いつもあなたと一緒だから。どんな時もあなたを支えるよ」とよび続けてくださっています。

at 16:24, 不死川 浄, -

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レットイットビーと念仏

 ビートルズの代表曲の一つである「レットイットビー」の歌詞を訳してみると「私がトラブルに巻き込まれ悩んでいるとき聖母マリアが私のところに来て、知恵ある言葉をささやいてくれた。レットイットビー(そのままでいい)」 私はこの歌詞を見たとき、念仏と同じだと思いました。念仏とは、阿弥陀仏が苦悩の有情を救うには、念仏になるしかないと見抜かれて、南無阿弥陀仏と我々によびかけているよび声です。南無阿弥陀仏とは、「そのままでいい」「われにまかせ」「決して見捨てない」という意味です。どこまでも苦悩している我々を認め、支え、救うという仏のよび声です。念仏とは仏の声を、真理の声を聞くことです。口で称えて耳で聞くのです。「レットイットビー」の歌詞はポールマッカトニーが悩んでいるとき書いたそうです。きっと聖母マリアの声を聞いたのでしょう。この歌は名曲に乗って世界中に伝わっていきました。阿弥陀仏は我々を救うために、念仏となりいつもよび続けてくださっています。苦しいとき、悲しいとき、仏の声を称えて聞いてください。きっと心が安らぎます。

at 17:26, 不死川 浄, -

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宗教とは何か

 日本人の多くは、宗教とは人間の力を超えた仏や神にすがって、心の安らぎやご利益を得るものであると思っている人が多いです。正月の初詣やえべっさん、節分、受験時期には、多くの人が家内安全・商売繁盛・合格祈願を求めてお参りしています。しかし仏教は仏さまに願って、心の安らぎやご利益を得る教えではありません。仏教は外に救いを求める教えではありません。内なる救いを得ることを教えています。仏とは、目覚めた人・覚者と言われるように、自分の中での気づき、目覚めを促す教えです。仏の教えを通して、自分が問はれ、今まで見えなかったことが見え、気づかなかったことに気づいていくのです。仏さまが生きる目となり足となり生きる大きな支えとなってくださるのです。仏の願いや念仏は、今まで空しく気づかずに過ごして生きてきたが、仏さまによびさまされ、育てられ、私自身のいのちの願いに気づかされ、仏さまに生きる力、喜び、安心を与えられるのです。自分が問はれなかったら仏教ではないのです。

at 14:30, 不死川 浄, -

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素晴らしい言葉とは

 「素晴らしい言葉に出遇うということは、素晴らしい言葉にただ出遇うということではないんです。素晴らしい言葉というのは、どこまでも自分に気がつかなかった、その自分というものを明らかにしてくれる言葉、これが素晴らしい言葉なんです」という言葉に出遇いました。誰しも何度か素晴らしい言葉に出遇われたことでしょう。本や映画やカレンダーや先生や先輩の言葉の中で。あるスポーツ選手は「本の中で素晴らしい言葉に会ったとき、自分の欠点や足りないもの、今まで気づいてなかったことが明らかになり、これからの生きる方向が見つかった」と話していました。素晴らしい言葉に出遇うといことは、自分に出遇うことなんです。今まで気づいてなかった自分が明らかにされるのです。仏法に出遇うということも、仏さまの言葉を通して、自分に出遇うのです。自分を知るということは本当に難しいです。いつも私たちは自分中心の眼しか持っていないので、自分のことは自分ではわからないのです。仏さまの言葉に照らされ、自分の愚かさ、罪深さ、恥ずかしさ、醜さが知らされ、仏法が生きる大きな支えになるのです。「遇いがたくして、今遇うことを得たり」という言葉がありますが、何が遇い難いかというと、自分に遇うということがとても遇い難いのです。今まで自分を見失い迷い続けていた私が、今やっと真実が見つかり、私が私として生きていくことが出来るという喜びの告白です。

at 17:34, 不死川 浄, -

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縁次第

 私たちは縁次第でいろいろな姿を見せています。縁次第でころころ変わっています。どれが本当の自分か? 私たちは『歎異抄』に「さるべき業縁がもよほさば如何なる振る舞いもすべし」とあるように、縁次第でどんな行動をするかわからない存在です。また私たちの命も縁次第でどうなるかわかりません。いつ、何処で、どんな死に方をするかも縁次第です。事故や病気で助かるか助からないかも縁次第です。たまたま発見が早かったとか、いい医者に巡り合ったとか、飛行機に乗れ遅れたので助かったとか、歩いていたら上から鉄パイプが落ちてきたとか、気を付けていても縁次第でどうなるかわかりません。私たちが縁次第でいろいろな姿を見せているのは、もともと実体(我)がないからです。実体がないからころころ変わるのです。本来は無我なのです。私たちの命も私の命ではありません。無量の縁によりいま「私」という存在があるのです。実体がないのに、実体があるかのように、「私」「私」と我を張って生きているのです。私たちは根無し草のような存在です。だから縁次第で揺らいで迷ってしまうのです。思い通りにならなかったとき慌てふためき苦しむのです。そして苦しみを無くそうと救いを求めています。しかし実体がないということが私たちの大きな苦しみの原因になっているのです。自分の思い通りにならないと言って苦しむということは、思い上がりのほかないのです。思い通りにならなかったとき大きく心が揺れ動く「私」とは何なのかと、その「私」を問うてみることです。

at 17:29, 不死川 浄, -

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光寿無量

 また一つ年をいただき、み仏のみ名を聞けよの命なりけり。

  人間も自然も無常であり、すべて移り変わっています。永遠に変わらないこの世の真理です。

  人間はいつも真理に背いて生きているので、如来は念仏となりよび続けて下さっているのです。

 

   救われぬ身に沁みわたる弥陀の声。 称えても称えても、また称えても弥陀の声。

at 01:18, 不死川 浄, -

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