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救いは如来の仕事

 念仏の救いには、人間の努力や頑張りは一切いりません。救いは阿弥陀さまの仕事であり、自分で積み上げたも、つかんだものは何の役にも立ちません。かえってそのハカライが救いの邪魔になるのです。自分がこれだけしたという自力のハカライが、「マカセヨ、必ず救う」という如来のよび声が聞こえないのです。私たち凡夫が救われるには、人間の力やハカライは一切いりません。救いは阿弥陀さまの仕事であり、阿弥陀さまにまかすしかないのです。ただ念仏です。「マカセヨ」「ハイ」ただこれだけです。 称名

at 01:01, 不死川 浄, -

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名をよぶとは

  念仏を称えるとは、仏の名をよぶことですが、私が自分の意志でよんでいるのではなく、仏がよばせているのです。「私が申す念仏やけど私でないがや、如来さまのおよび声や」「念仏とは私が仏をよぶ声ではなく、仏が私をよびたもう声」とあるとおりです。 念仏を称えるとは、仏さまのよび声にこだましているのです。仏さまのよび声が私に響いて、私の口から出てくださっているのです。 キャンディーズのスーちゃんが亡くなる前、仲間の二人は数時間も名前をよんでいたそうです。名をよぶとは、本当は相手がよばせているのです。相手の温もり・優しさ・暖かさが伝わっているから、名をよばずにはおれないのです。もう名をよぶしかないのです。その中に、「ありがとう」「お世話になりました」「また会おうね」という気持ちがこもっています。阿弥陀さまは私たち凡夫をそのまま救うためには、念仏となり名をよぶしかなかったのです。そのよび声にこだましていきましょう。

at 01:39, 不死川 浄, -

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万人平等の救い

 阿弥陀如来は、いままでどの仏も考えなかった、壮大な願い・誓いをたてられのです。十方衆生すべての人々を救うという、万人平等の救いを願われたのです。決して一人も漏らさず、どんな極悪人も必ず救い、決して見捨てないと。 ではどうすれば万人平等の救いを実現することができるかと、五劫思唯という長い長い間悩みぬかれ、念仏を選び取られたのです。万人平等の救いを実現するにはただ念仏しかなかったのです。阿弥陀如来自ら念仏となり、「必ず救う、我にまかせ」とよび続けてくださっているのです。名となれば、どんな人でも称えることができ、自らを人々の口に顕すことができ、どんな人もそのまま救うことができ、いつでもどこでも支えることができ、生きる方向を示すことができるからです。念仏となることにより、万人平等の救いを実現するこができたのです。それ故多くの仏たちが、ほめたたえてくださっているのです。

at 00:15, 不死川 浄, -

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仏のみ名

  なぜ阿弥陀如来は、南無阿弥陀仏という名になられたのか? それは名となるしか十方衆生を救うことができなかったからです。いづれの行も出来ない煩悩具足の凡夫を煩悩を持ったままそのまま救うには、名となるしかなかったのです。名となることにより自らを人々の口から顕すことができるからです。名とは、念仏であり阿弥陀如来の名前であり、名号です。
 「弥陀の回向のみ名なれば、功徳は十方にみちたまふ」とご和讃にあるように、如来の功徳をすべて名に込めて、「必ず救う、我にまかせよ」「真理に帰れ」「真実に目覚めよ」「いつも一緒だよ」とよび続けてくださっているのです。仏のみ名が私に届けば、私の口から阿弥陀如来が顕れてくださるのです。私が称える念仏ですが、阿弥陀さまのよび声が私の口から出てくださっているのです。 また「仏のみ名をきく人は、ながく不退にかなふなり」とあるように、いつも私を支え、もう決して救いに関して迷うことが無くなるのです。仏のみ名を称えつつ、強く明るく生き抜くのです。

at 18:54, 不死川 浄, -

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無縁社会

  日本という国は、これからますます無縁社会になっていくといわれています。地縁・血縁・社会との縁が希薄になり、一人暮らしや孤独死も増えてきました。お葬式も現代は大きく変わってきました。昭和50年代はほとんど自宅でお葬式を出しましたが、それ以降は家でするのは大変だから町会館でするようになってきました。しかしこの数年はほとんど葬儀社の会館でするようになってきました。町会館では、役員さんたちに気を使うし、手伝っていただいたらお返しが大変だからが理由のようです。そしてとなり近所にも連絡せず、ごく近い身内だけでする家族葬が増えてきました。また都会では葬式もせず病院から火葬場への直葬も多くなってきました。これからますます増えていくことでしょう。
 時代の流れや社会の仕組みが無縁社会を作っていき、人間がますます自分中心になってきました。この流れを断ち切らねばなりません。縁・つながり・絆を取り戻さなければなりません。東日本大震災のあと、絆ということが叫ばれてきました。これは絆を失った日本人に、大自然からの警鐘だったかもしれません。仏教の中心思想である縁起ということは、みんなつながりあっている、一人では生きれない、多くの命に支えられ生かされていることを教えています。縁起を見失って生きている私たちに、「真理に帰れ」とよびかけているいのちのよび声がお念仏です。

at 19:18, 不死川 浄, -

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真理に従う

  念仏とは、「真理に帰れ」という如来のよび声であり、如来の勅命ですから、念仏を称えるということは、真理に従います、如来に帰依します、おまかせしますということです。真理に従うことですから,『歎異抄』7条にあるように、念仏者に天の神や地の神は敬伏し、魔界・外道も決して障碍(さまたげ)することは出来ないのです。霊や祟りを少しも恐れることはないのです。念仏者を多くの仏や神々がほめたたえてくださるのです。しかし念仏者も人間ですから、決して自我や煩悩はなくなりません。縁ひとつで何を思い何をするかわかりません。それ故に如来の勅命である念仏を生きる座りとして生きていかねばならないのです。

at 15:13, 不死川 浄, -

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如来の勅命

  念仏は、「真理に帰れ」という阿弥陀如来の勅命です。勅命とは阿弥陀如来の命令ということです。世界中誰しもこの命令に従わざるを得ないのです。何故かというと、人間は誰しも自我のメガネをかけて真理に背いて生きているからです。ありのままをありのままに見ることは出来ません。誰しも自分の見たいようにしか見ていないのです。それ故、ありのままの世界(真如)から来て、阿弥陀如来となり、「真理に帰れ」「我にまかせよ」「阿弥陀仏に南無せよ」と念仏となりよび続けていられるのです。親鸞聖人は、「帰命は本願招喚の勅命なり」と述べられています。私たち衆生に、真理に帰せよ命じる如来のよび声です。如何なる人もこの命令に従わなければならないのです。

at 15:29, 不死川 浄, -

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自我のメガネをはずす(3)

 自我のメガネをはずすというと、とても難しいように思われるかもしれませんが、聴聞を繰り返し、仏さまの眼を通して、自分を見つめさせて頂くことです。仏の鏡に我が身が照らされていくことです。「損か得か人間のものさし、嘘かまことか仏さまのものさし」とあるように、人間の自我のメガネでは、好嫌・損得の物差しでいつも見て、人を比べ・分け隔てしています。しかし仏さまの眼は決して人を比べ分け隔てされません。何が真実で嘘かの物差しで見ていられます。また「人間の眼は他人の非が良く見える。仏さまの眼は自分の非が良く見える」とあるように、仏さまの眼で自分を見つめると、私の愚かさ・恥ずかしさ・醜さ・罪深さが知らされ、自我のメガネをはずさせていただけるのです。

at 14:17, 不死川 浄, -

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自我のメガネをはずす(2)

 自我のメガネをはずしても、決して無くならないし、はずしたと思っていてもすぐに自我のメガネをかけて見ている私ですから、仏の眼をいただき、生きる座りとしなければいけないのです。
 自我のメガネをはずし仏の眼をいただくとは、いのちを私有化し、いのちをエゴで握っている力が離れていくことですから、永遠のいのちを生きていることが知らされ、死を超えて生きることができるのです。永遠の今を生きているのです。 いのちを私有化し、自我のメガネをかけて見ているから、私の命が無くなることが怖いし不安です。もともと私の命というものはなく生かされているいのちです。自我で見るから私の命として見ているのです。自我のメガネをはずすと、永遠に触れ、永遠のいのちを生きている私が知らされるのです。死とは私の肉体は無くなりますが、永遠の命を生きていることには変わりはないのです。

at 15:16, 不死川 浄, -

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自我のメガネをはずす

 仏さまに遇う、念仏に遇うということは、自我のメガネをはずすことです。自我のメガネをはずして見ると、まったく違った世界が見えることでしょう。人間は生まれて自我が芽生えてきて、2歳ぐらいになると自我が確立し、それから自我のメガネをかけてあらゆるものを見ています。この自我のメガネをかけて見ているから、人間誰しも自分の見たいようにしか見ていないのです。ありのままをありのままに見れないのです。それ故争い、迷い、苦しむのです。念仏に遇うということは、「自我崩壊の音なり」と言われているように、自我が破れ、自我のメガネをはずすことです。ただし自我のメガネは無くすことは出来ません。死ぬまで無くなりません。自我のメガネをはずすとは、仏の眼をいただくことです。仏の眼を通して見させていただくのです。そうするといままで自己中心に生きてきた私の姿が知らされます。「自惚れが木から落ちた。その自惚れがまた木の上に登っている)と言われるように、すぐに自我のメガネで見ている私たちだから、仏の眼をいただかなければならないのです。

at 14:50, 不死川 浄, -

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