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枠を越える

 仏教、キリスト教、イスラム教の枠を超えて、何が真実か、何が人間の救いかを、まず第一に考えなければいけない。仏教もたくさんの宗旨・宗派に分かれているが、枠にとらわれて真実を見失ってはいけない。釈尊も親鸞聖人もまったく教団という組織をを作る意思はなかった。もちろん組織を作ったおかげで長く続き、多くの人に伝わった恩恵はあるが、組織を作るとどうしても組織を守ることにとらわれ大切なことを見失ってしまう。いま個々の宗教というものは卒業し、宗教の枠を超えて人間の救済を伝えていこうという声を耳にするようになりました。その方がより自分の所属している宗教が本当に人間を救うことが出来るかを考えるようになります。「真理は一つ、入り口が違うだけ」という言葉を聞きました。入口にとらわれてしまうと真理を求めることを忘れてしまうのです。人間はすぐにいろいろな所で枠・壁・垣根を作り争っています。本来仏教の無我の教えはその枠・壁・垣根を越えていくことを教えています。まず私自身が、その枠にとらわれ縛られていないかを見つめていかなければいけないのです。

at 16:13, 不死川 浄, -

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絶対的な支え

 「自由と支えは表裏の関係」「自由に生きるには絶対的な支えが必要」「自分を支えてくれるものがあるという確信のようなものが、人間の自由を支えるのです」上田紀行著『立て直す力』より。無条件に、絶対的に支えてくれるものがあれば安心で、幸か不幸か、成功しても失敗しても、どっちに転んでも大丈夫という自由の身になることができます。何が私を絶対的に支えてくれるのか、自分をどんなことがあっても支えてくれるものをもてば生きる力となります。阿弥陀さまの立像は、「どんなことがあっても必ずあなたを支える」というはたらきを表わしています。念仏は「無条件に、絶対的に、あなたを支える」という阿弥陀さまのよび声です。いつでもよび続けてくださっています。そのよび声に応えて「ありがとう」と念仏を称えましょう。「無条件に、絶対的に、あなたを支える」という阿弥陀さまの心をいただくことが信心です。仏の大地に樹(た)って生きるのです。大地にしっかりと根を張って生きるのです。ある人の言葉です「これから先の人生、幸か不幸か知らねども、どちらになってもよろしいと確かな覚悟が出来ました。」

at 18:11, 不死川 浄, -

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煩悩は無くそうとしないこと

 煩悩とは、身を煩わし心を悩ます浅ましいものです。無くなるものなら無くなってほしいです。しかし煩悩は無くそうとしないことです。無くそうとしても無くなるものではない。無くそうとするから苦しむのです。煩悩は見えたらいいのです。仏さまに煩悩を見つめさせてもらい歩むのです。煩悩と向き合えば、煩悩に支配され、振り回されることはありません。阿弥陀さまは、私たちが煩悩いっぱいの凡夫と見抜いて、煩悩を持ったままの私たちをそのまま救おうとはたらいてくださっています。もし煩悩が無くなれば仏さまの仕事は無くなり、仏さまと縁が切れるのです。また少しでも煩悩が無くなったと思えば、頭が上がり、うぬぼれ、善人顔して自分を見失うのです。ある人の言葉です「仏法を聞いて、いいもんになろうと頑張ってきたが、やっとダメなもんやということがわかりました。ダメなもんやということがわかって、はじめて仏法が身についてきました。」 この煩悩があればこそ、この煩悩を仏さまの光に照らされ見つめさせていただき、仏さまとともにこの人生を歩まさせていただくのです。

at 15:00, 不死川 浄, -

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目覚めていく教え

 宗教とは、人間の力を超えた仏や神にすがって安心やご利益を得るものと思っている人が多いが、仏教は違います。仏とは、目覚めた人、覚者というように、この世の真理・自然の道理・いのちの事実に目覚めていく教えです。仏教とは、目覚めた人の教えを聞いて、自然の道理に目覚めて苦しみを乗り越えていく教えです。目覚めがなければ生きる力にならないし、本当の安心を得ることはできません。「弥陀仏は、自然のようをしらせんりょうなり」といわれるように、阿弥陀仏とは、智慧と慈悲により人間を目覚めさせるハタラキです。私たちに自然の道理を知らせんがためにはたらき続けていられるのです。ただ仏や神にすがって安心やご利益を得るのではありません。仏のはたらきによリ、今まで見えなかったこと、気づかなかったこと、大切なことに目覚めていくのです。仏さまとともに、支えられ、導かれ、気づかされながら、ともに歩んでいくのです。

at 01:01, 不死川 浄, -

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お母さんが一緒

 先日の『本願寺新報』に掲載されていた、「報恩講によせて」の法話はとても分かりやすく興味深かったです。「私たちは本来孤独であって、みんなひとりで生まれて一人で死んでいくのだけれども、どんな時もアミダさまがご一緒です」。 「アミダさまとご一緒」というよりも、「アミダさまがご一緒」なのですと教えられ、テレビで「おかあさんといっしょ」という番組があるが、「お母さんと一緒」と言った時と、「お母さんが一緒」と言った時の違いを述べて説明されていました。「お母さんと一緒」という言い方は、「私がお母さんと一緒に居る」という意味で、私が主人公の話で、私から出発する話ですから、私がお母さんと一緒に居たくて居る感じがします。それに対して「お母さんが一緒」という言い方は、「お母さんが私と一緒に居てくれる」という意味で、お母さんが主人公の話で、お母さんから出発する話です。私がお母さんを忘れていても、お母さんは私を忘れることなく一緒に居てくださるわけです。同じように、「アミダさまとご一緒」というのは、「私がアミダさまとご一緒する」という意味で、私が主人公の話で、私から出発する話です。しかし「アミダさまがご一緒」というのは、「アミダさまが私とご一緒下さる」という意味で、アミダさまが主人公の話で、アミダさまから出発する話です。ではなぜアミダさまはご一緒くださるのでしょうか。それは私たちがさびしい命を生きているからです。人はみな、死ぬ時はたった一人です。今まで支えにしていたもののすべてが、私を見放します。また生きている今、たった一人になることもあります。あらゆる支えを失って、自分で自分を見捨ててしまうような気持になることもあります。しかし、たとえ世の中の全てに見放されたとしても、自分で自分を見捨てるようになったとしても、アミダさまだけは私を見捨てることなくご一緒くださるのです。と述べられていました。

at 15:39, 不死川 浄, -

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ゲバラの言葉

 八月の末にキューバに行き、ゲバラの人気に驚いた。死後50年もたっているのにゲバラの人気は衰えていない。先日BSで「世界で一番アツい日。100万人の大行進」を見た。毎年5月1日のメーデー。60年も続いているそうだ。このメーデーは日本と違い、労働環境の改善や賃金アップの要求ではなく、キューバの革命を祝い、キューバ人の団結を確認し、平等で人道的な社会の実現を目指す集会である。この行進の中に医師たちもたくさん参加していた。しかも海外からも。これは「ゲバラの言葉」が医師たちの心の支えになっているからである。「一人の人間の命は、地球上でもっとも豊かな人間の全財産よりも、100万倍の価値がある」「隣人のために尽くす誇りは、高い所得を得るよりも、はるかに大切だ」。行進に参加していた医師の言葉「私たちは人々の健康に尽くす医師、ゲバラの思想を受け継ぐ存在です。ゲバラの精神がいまここに生きていることが確認できたから今日は最高に幸せな一日です」と嬉しそうに話していた。そして「自分の生活を最優先すると人は過ちを犯します。もっと見返りがあるはずと考えてしまうのです」と話した言葉が印象的であった。実際自分の生活を最優先し、もっと高い報酬を得るために亡命をしている人も多発しているそうである。いまキューバはアメリカから経済封鎖をされ生活は苦しいから海外に出る人も多い。ある高校生は「いまの現状では将来は海外で働きたい。もっと報酬が上がれば残りたい。キューバは隣人同士助けあう、愛にあふれている国です」と話していた。これからキューバはどの方向に進むのだろう。しかし100万人の大行進のメーデーが続いているあいだは革命の精神を受け継いで進むことでしょう。

at 18:21, 不死川 浄, -

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仏の大海を知ろう

 「井の中の蛙、大海を知らず」という言葉があるように、人間は皆、自我中心に生き「井の中の私」ですから、「仏の大海」があることを知りません。仏の大海を知ってほしいです。仏の大海を知れば、安して生き、安心して死んでいけます。人間世界は、娑婆・世間・生死の苦界で、仏教は娑婆を出る、世間を出ることを目的としています。人間世界は、我の世界であり、上下・優劣・損得・善悪等があり、壁や境界や垣根や枠のある世界です。仏の世界は、我を超えた世界であり、上下・優劣・損得・善悪等のない、分け隔てのない、一味平等の世界です。仏の世界を知れば、いのちが安らぎます。人間は自分の力で娑婆を出ることが出来ないから、仏の世界から来てくださり娑婆を出る道を導いてくださっているのです。仏の大海を知っても、生きている限り娑婆を出ることはできないが、「大海を知った井の中の蛙」と、「大海を知らない井の中の蛙」では、生き方が全く違ってくるように、仏の大海をを知れば、今まで少しも考えもしなかった「人生の目的地」が見えてくるのです。それ故に安心して生き、安心して死んでいけるのです。 「次に生まれるとしたら鳥になりたい。国境のない鳥に」(坂村真民)

at 14:48, 不死川 浄, -

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自然(じねん)の法則に従う

 太陽は東から出て西に沈む。どんな川もみな海に帰る。人間も娑婆の縁が尽きれば、いま私たちを生かしている無量の寿(いのち)の世界、いのちの故郷である浄土へ帰るのです。これは自然の法則です。しかし人間は自我の芽生えと同時に、いのちを実体化し、我が命と思い、自然の法則に逆らうから苦しむのです。いのちの帰る処を見失っているのです。それゆえに真如の世界から来て、阿弥陀如来が南無阿弥陀仏となり、「我にまかせ、必ず浄土に連れて帰り仏にする」と、よび続けてくださっているのです。このよび声にまかすしかないのです。念仏を称えて生きるとは、自然の法則に従って生きることです。念仏に遇い、よび声にまかせれば、いつ、何処で、どんな死に方をしようが心配ないのです。いのちある限り精一杯生き抜くことが出来るのです。

at 19:02, 不死川 浄, -

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我にまかせよ

 念仏とは、「阿弥陀仏に南無せよ」、「我にまかせよ」という阿弥陀仏のよび声です。名号です。私たちは何処に向かって生きているのか、人生の旅の終わりはどこか、いのちの行方が決まっていなければ安心して死ねません。不安です。その私たちに「心配ないよ。我にまかせ。必ず救う。お浄土に生まれ仏さまになるんだよ」と、よび続けてくださっています。仏さまの言葉に嘘はありません。真理の言葉です。安心してまかせてください。大丈夫です。そのままナンマンダブツの船に乗ってください。「ありがとう。ナンマンダブツ」と応えて生きていきましょう。いつ、何処で、どんな死に方をしようが心配ありません。いのちある限り安心して生きぬくことが出来ます。

at 17:44, 不死川 浄, -

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あたりまえの不思議

 自分の足では1キロも歩けないが、単車や車でほぼ毎日2・30キロ走っている。新幹線に乗れば、じっとしていても二時間で東京や福岡に着く。飛行機に乗れば半日でアメリカやヨーロッパへ行くことが出来る。自分の足では1キロも歩けない私が、世界中を旅している。 どうして私が、私としてこの世に生まれて来たのか。不思議なご縁としか言いようがない。この私を生き切るしかない。いつ死んでもおかしくないが、いまここに生きている。二十歳まで一緒に暮らした家族は全員亡くなった。私だけが生きている。いつまで生きるのか、どんな死に方をするのか、ご縁次第です。まかせるしかない。  色も形もない仏さまが念仏となって私の口から出てくださっている。不思議です。苦しい時つらい時ほど仏さまが出てくださっている。ありがたいことです。念仏とともに、命ある限り私を生き切ろう。浄土への道を歩んでいこう。

at 03:20, 不死川 浄, -

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