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念仏の救い

 念仏の救いとは、私が念仏を称えて救われるのではありません。いくら真心を込めて一生懸命に数多く称えても救われません。私が称えるのではなく、阿弥陀如来が念仏となり私たちの口から念仏を称えさせて救って下さるのです。念仏は私が称えるのではなく、阿弥陀さまが称えさせてくださるのです。念仏を称えるとは阿弥陀さまが私の口から出て下さるのです。だから救われるのです。念仏を称える主体は私ではなく阿弥陀さまなのです。念仏は、阿弥陀さまの説法であり、よび声であり、名のりであり、叫びです。どこまでも自己中心に生き、縁次第で喜んだり、悲しんだり、思い上がったり、落ち込んだりする私たちを決して見捨てず、どんな状況になっても私たちを必ず救うと念仏となり、私たちの口から称えさせてくださるのです。私自身、腹が立ったとき、悔しいとき、辛いとき、思い通りにならないときこそ、念仏が口から出て下さり、自分を取り戻させてくださっています。いくら仏法を喜んでいても、縁一つでその思いは消え、何を思い何をするかわかりません。これが現実の私です。その私の本性を見抜いていられるから、阿弥陀さまは念仏とならざるを得なかったのです。念仏を称えて願いが叶ったり、現実が変わるのではありません。そのままの私が安心できるのです。喜べるのです。生きる力となるのです。

at 01:44, 不死川 浄, -

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すでに道あり

 すでに私たちが救われる道は用意されているのです。仏さまが成就してくださっているのです。要はその道を歩くか、歩かないかです。その道は浄土への道であり、生死いづべき道であり、無碍の一道です。生死の苦海に久しく沈んでいる私たちに、阿弥陀さまは苦悩の衆生を必ず救わずにはおかないと、長い長い間苦しまれ、大悲の願船を用意して下さり、「我にまかせ、必ず救う」「さあ早く弥陀の船に乗りなさい」と念仏となり、よび続けて下さっています。さあ早く弥陀の船に乗りましょう。この船に乗らなければ生死の苦海に沈んだままです。大悲の願船に乗れば、これほど安心なことはありません。どんな状況になっても支えて下さり、いのちある限り浄土への道を歩むのです。どうしたら助かるのかを聞くのではありません。阿弥陀さまのお慈悲に抱かれ、助かる道はもうすでに用意されているのです。もうすでに道ありを聞くのです。浅原才市さんは「聞いて助かるのではない。助けてあるをいただくばかり、助けてあることの南無阿弥陀仏」と喜びを詠われています。

at 17:21, 不死川 浄, -

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いのちの願い

 なぜ阿弥陀如来は、私たちに「我が国(浄土)に生まれて欲しい」と願われているのか。それは浄土に生まれることが私たちのいのちの本当の願いであるからです。みんないのちの願いは浄土に生まれたいのです。それに気づかないだけなのです。仏法に遇わなければ、浄土に生まれたいと思う人はいないです。しかし仏法を聞き、仏法が我が身に届くと、浄土に生まれたいと願うようになるのです。阿弥陀如来は人間のいのちの根本要求を見抜いて、浄土に生まれる道を開いてくださっているのです。浄土に生まれるとは、小さな我の世界から、我を超えた広い大きな世界へ生まれることです。井の中の蛙のような私たちが、大きな大海に出ることです。上下・優劣・損得・老若・貧富など分け隔て、物差しの世界から、分け隔てのない、物差しのない、境界や垣根や壁のない自由な広い世界へ出ることです。生死の問題で苦しんでいる私たちが、生死を超えた永遠のいのちの世界、無量の寿(いのち)へ生まれるのです。苦しみ多い娑婆の世界から仏さまの世界へ生まれるのです。浄土に生まれるとは死んでからの問題ではありません。いまの問題です。いま仏法に遇うことにより、生死の問題が解決し、人生の目的地が明らかになり、安心して生き安心して命終えていけるのです。この命ある限り浄土への道を歩まさせていただくのです。

at 21:50, 不死川 浄, -

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煩悩をくすぐる

 ミルクボーイが関西電力のコマーシャルで、「なっトクパックは電気もガスも下がり、スマホで簡単、楽して得したいという人間の煩悩をくすぐるメニューなのよ」と話しているように、人間は煩悩をくすぐられると心が動きます。少しでも楽したい、得したいという心を持っています。買い物一つでも少しでも得したい、損はしたくないという心が働いています。煩悩とは身を煩わし心を悩ますものです。私たちにとって本当に嘆かわしく浅ましいものです。しかし煩悩は、臨終の一念にいたるまでとどまり、消えず、絶えずで無くならないのです。この我が身のいのちの事実を知るべきです。仏法を聞くとは、仏さまが、我が身がどこまでも煩悩具足の凡夫であることを知らせて下さるのです。そして煩悩いっぱいの私たちを必ず救うとはたらき続けて下さっているのです。煩悩とは無くそうとしないことです。無くそうとしても無くなりません。無くそうとするから苦しむのです。煩悩は見えたらいいのです。煩悩が見えたら、この私を必ず「そのまま救う」という阿弥陀さまのお慈悲が身に沁み込んでくるのです。煩悩で苦しんでいるからこそ、阿弥陀さまは救わずにおかないとはたらき続けて下さっているのです。もし煩悩が無くなれば仏さまと縁が切れ、仏さまの用事が無くなるのです。いくら信心をいただいても煩悩は無くなりません。縁次第で起こってきます。煩悩と仏さまと一緒に生きるのです。煩悩の火を燃やしながら、煩悩を見せてもらって、仏さまとともに無碍の一道を歩んでいくのです。

at 20:52, 不死川 浄, -

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レジ袋有料化

 オランダ人のボイヤンスラットさん、17歳の時ギリシャ旅行で海に潜った時、「魚よりゴミの方が多かった」ことにシヨックを受け、プラスチックごみの回収を始める。19歳の時、世界規模のプレゼンテーションで訴えると、世界中から44億円の寄付が集まったそうです。現在ゴミを大量回収する船を作り、太平洋の海を中心にプラスチックごみの回収に励んでいます。普段私たちが使っているプラスチック製の容器や袋などが海に流れ、海洋プラスチックごみになって、海洋汚染や生態系に大きく影響を及ぼしています。プラスチック製品は軽量で加工がしやすく、とても便利ですからあらゆるものに利用されています。しかしこのまま進めていくと、海洋汚染だけではなく、海に生きる生物や産業や、またマイクロプラスチックとなって私たちの身体にまで影響を与えます。歯止めが必要です。京都の亀岡市では3月に「亀岡市プラスチック製レジ袋の提供禁止に関する条例」が成立しています。7月1日から全国の小売店でプラスチック製レジ袋が有料化となりました。確かにレジ袋は便利でとても使いやすいですが、一人一人がちょつと生活を改め意識を持つだけで大きく変わります。美しい海で育った私は、汚れた海は悲しみです。いつまでも青く美しい海であってほしいです。

at 00:32, 不死川 浄, -

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自然と人間

 『阿弥陀経』に「共命鳥」(ぐみょうちょう)という鳥が出てきます。胴体は一つで、頭が二つあり、命を共にする鳥です。頭が二つあるので考えにも相違があり、いつも争っていました。ある時我慢の限界に達した左の頭の方が、右の頭がいなかったらどんなに自由に楽しく暮らせるだろうと思い、右の頭に毒を飲ませることにしました。すると食べたほうの右の頭は苦しみ死んでしまいました。左の頭は、これで自分の思い通りに生きていけると喜んでいたら、胴体は一つですから、毒がだんだんと全身に回り死んでしまうのです。この話はいろいろなことを教えています。すべてのいのちは単独で存在するものでなく、互いに関わりあって存在しているのです。自然と人間の関係も同じです。地球という一つの世界にいながら、人間が快適な生活を求めて、自然を破壊してきました。人間の都合で自然を変えていきました。いまその結果がそのまま出てきました。新型コロナウイルスも、プラスチックごみによる海洋生態系の損失も、温暖化による海面上昇、豪雨、熱中症など、自然を破壊した付けが回ってきています。他を滅ぼすことは自分自身を滅ぼすことになるのです。他を生かすことが自分自身をも生かすことになることを、極楽の鳥である「共命鳥」は教えているのです。

at 01:45, 不死川 浄, -

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いのちの満足

 宗教とは、「人間の力を超えた仏や神にすがって心の安らぎを得る教えである」と思っている人が多いですが、仏教は違います。仏教は外に救いを求める教えではありません。お釈迦さまは外に救いを求める道は「外道」であると否定されました。仏とは覚者(めざめた人)といわれるように、外に救いの道を求めるのではなく、自分の内に気づき・めざめを促す教えです。人間は誰しも、自我の根底にいのちの要求を抱いています。本当に生きたい、真実に生きたい、確かなものに遇いたいと、いのちの満足・いのちの充実を求めているのです。私たちはよく日常生活の中で、空しい・退屈だ・不安であるという気持ちが起こりますが、それはすべての人の中に真実なるものを求める心がうずいているのです。真実に生きたいと、いのち自身が要求しているのです。仏法に遇う、念仏に遇うということは、何か新しいものが外から付け加わって、私が大きく変えられるということではなくて、今まで空しく過ごして気づかずにいた私自身のいのちの要求にいま初めて気づかされた、私を促し続けていたいのちの願いにいま初めて遇うことが出来たということです。そして出遇ってみれば、もうそれを離れて生きれないし、出遇ってみればそれはつねに私を促し導き育て続け、私を真実の道へ歩ませてくださるのです。

at 15:40, 不死川 浄, -

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自我を超える

 仏教は、我を離れて生きていこうという教えです。我があれば真実に出遇えないからです。しかし私たちはつねに自我中心に生き、自我の満足を求めて生きています。自我とは思い通りにしたい心であり、思い通りにならないことを苦しみといいます。本来はいのちの事実は無我であるが、人間は我によっていのちを私有化し、実体化し、執着し、自他の対立をし、いろいろな苦しみを生じています。我こそが諸悪の根源と言っていいでしょう。仏教では厳しい修行をし、煩悩を断ち、我を超えて真理に覚めていこうという教えもありますが、私のような我の強い煩悩いっぱいの人間にはとうてい無理な教えです。死ぬまで我は無くなりません。そういう私たちのために、真理(如)の方から来て、そのままの私をそのまま抱きとって、いつも支えてくださる方があるんです。その方を阿弥陀如来といいます。いつも南無阿弥陀仏となり、阿弥陀仏(われ)に南無せよ(まかせよ)と喚(よ)び続けていられます。この人生思い通りになりません。思い通りにならないから、思い通りにならない時こそ、私たちの口からナンマンダブツと称えさせ、お出ましになってくださっているのです。いつ自我中心に生きている私が私であることが許されて生かされているのは阿弥陀さまのおかげなのです。自我とともに真実への道を歩まさせてくださるのです。

at 19:28, 不死川 浄, -

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真理との出遇い

 真理との出遇いは、人間の方から求めて得るものではなく、真理の方からのハタラキにより出遇うのです。日本画家、東山魁夷氏が「私が花を美しいと捉えようとしている間は、まだ花の美に出会っていない。偉大な芸術家たちは、みなものの美に捉えられた人たちです。自分の我があったら本当に美しい絵は生まれないのです」と述べられているように、人間のハカライ、理性や分別でとらえるのではなく、そのものの美に捉えられるのです。そこには自分の我はないのです。同じように仏さまとの出遇いは、私が仏さまを捉えるのではなく、仏さまに私が捉えられるのです。『歎異抄』に「念仏には無義をもって義とす」とあるように、人間の義(ハカライ)の無いところに、念仏の本当の義・真理があるということです。念仏は人間のハカライ、理性や分別でわかろうとするからわからないのです。出遇えないのです。どれだけくわしく念仏を説明され納得できたとしても、決して信や喜びは湧いてきません。信心はいただけません。広大無辺なお慈悲に出遇い、我が破れたところに如来さまが念仏となり私の口から出て下さるのです。私の口から念仏が出るのですが、念仏を称える主体はどこまでも如来さまです。「自分の我があったら本当に美しい絵は生まれない」ように、自分の我があったらまだ本当の念仏ではないのです。「聞いて助かるんじゃない、助けてあるをいただくばかり」「助けてあることの南無阿弥陀仏」といわれてるように、どうすれば助かるのかと聞いて助かるのではありません。ただ「必ず救う」という如来さまの仰せにまかせるだけです。

at 16:07, 不死川 浄, -

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自分の葬式をする

 「仏法を聞くことは、生きているうちに自分の葬式をすることです」ということを聞きました。これは世間でいう生前葬ではありません。仏法を聞き、信心をいただくということは、阿弥陀さまの心をいただくということです。阿弥陀さまの心をいただくということは、無量寿のいのち、永遠のいのち、死なないいのちをいただくことです。それは信心がおこった時に、娑婆のいのちが死んでしまったということです。後生の一大事の解決であり、死ぬことが不安でなくなります。そのことを「生きているうちに自分の葬式をする」と言われているのです。浅原才市さんは「わたしゃ臨終すんで葬式すんで、みやこ(浄土)に心住ませてもろうてナンマンダブツと浮世におるよ」と述べられています。生きているときに仏法を聞き、信心をいただき、自分の葬式をした人は、娑婆の縁尽きた時、死なないのです。生まれるのです。往き生まれるのです。往生して仏にならせていただくのです。これほど大きなご利益はありません。「必ずあなたを救い仏にする」という阿弥陀さまの声を素直に聞いていきましょう。

at 16:51, 不死川 浄, -

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