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仏の大海を知ろう

 私たち凡夫は井の中の蛙です。つねに自我のメガネをかけ、自我中心に生きています。自我の世界の中で善悪、損得、優劣、勝ち負けを計算しながら生きています。仏教では自我の世界を娑婆とか世間と教え、娑婆、世間を出ることを目的としています。娑婆、世間の価値観では、健康が一番であり、役に立つ人や上に行けば上に行くほど偉いと思われています。仏の大海の世界では、物差しのない世界であり、一切分け隔てがなく、その人がその人のまま、いのち輝く世界です。仏の教えを聞かなければ、仏の大海の世界や、我を超えた世界があることを知らないのです。我が破れなければ救いはありません。一時的な自我の満足にすぎません。いのちが輝きません。虚しく寂しく死んでいくだけです。ただ私たち凡夫は死ぬまで娑婆を出ることはできません。自力では我を破ることはできません。それ故に、真如の世界から来てくださった阿弥陀如来という仏さまは、念仏となり、いつも私たちに、広く大きな大海があることを知らせ、大海に出るようによび続けてくださっているのです。「早く目を覚ましなさい」と心のドアーを叩き続けていられるのです。我が破れ心のドアーが開けば、いつも一緒に大海への道(浄土への道)を歩んでくださっているのです。

at 18:38, 不死川 浄, -

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身につく

 いくら仏法を学んでも、いくら長く聴聞しても、身についていなければ仏法が生きる力、生きる支えになりません。頭でわかっていても実際行うと出来ないことは多いです。それは身についていないからです。一度身につくと身体は忘れないものです。煩悩は教えてもらわなくても学ばなくても、縁次第で嘘や悪口や陰口を言っています。それはもともと身についているからです。煩悩は無くなりません。そのために阿弥陀さまは休むことなく私たちを救おうと、心のドアーをノックし続けてくださっているのです。煩悩具足の凡夫で救われない私と知らされると固い心のドアーが開くのです。ドアーが開くと阿弥陀さまが身につき、煩悩と一緒に同居してくださるのです。「わが胸に鬼と仏が同居して、角を出したり手を合わせたり」です。念仏者の救いは、慚愧(ざんぎ)と歓喜(かんき)がワンセットです。恥ずかしい、おかげさまの日暮しです。この歩みこそ真実への道を歩む人生です。

at 17:34, 不死川 浄, -

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身につく

 いくら仏法を学んでも、いくら長く聴聞しても、身についていなければ仏法が生きる力、生きる支えになりません。頭でわかっていても実際行うと出来ないことは多いです。それは身についていないからです。一度身につくと身体は忘れないものです。煩悩は教えてもらわなくても学ばなくても、縁次第で嘘や悪口や陰口を言っています。それはもともと身についているからです。煩悩は無くなりません。そのために阿弥陀さまは休むことなく私たちを救おうと、心のドアーをノックし続けてくださっているのです。煩悩具足の凡夫で救われない私と知らされると固い心のドアーが開くのです。ドアーが開くと阿弥陀さまが身につき、煩悩と一緒に同居してくださるのです。「わが胸に鬼と仏が同居して、角を出したり手を合わせたり」です。念仏者の救いは、慚愧(ざんぎ)と歓喜(かんき)がワンセットです。恥ずかしい、おかげさまの日暮しです。この歩みこそ真実への道を歩む人生です。

at 17:34, 不死川 浄, -

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信心の社会性

 信心に社会性、公共性がなかったら、浄土真宗の信心とは言えません。信心は自分が信じるものではありません。阿弥陀如来の本願により生ずるものです。本願は苦悩の有情を救うために、一切衆生を救うために起こされたものであり、もし救えなかったら私は仏にならないと誓われています。この本願よりいただいた信心は、私一人の救いという自己の閉鎖性の壁を破るものであり、朋に救われていこうとするものです。社会性、公共性がなかったら、独りよがりの信心に陥ってしまいます。ただ信心獲得するには、「親鸞一人がためなり」「往生は一人のしのぎなり」と言われるように、一人のしのぎによって得るものです。親鸞聖人も多くの妙好人も信心を得るまでには、とても厳しいしのぎがあったことでしょう。問題はそのしのぎによって得た信心の内容です。信心は私一人の問題で他の人には関係ないというものではありません。それは間違った信心理解です。それがいつのまにか自分だけの救いにとどまり社会性、公共性を失うものとなってきたのです。信心を得た喜びを多くの人に伝えていかねばなりません。とくに苦悩している人々に、如来の大悲を伝えていかねばなりません。それが信心の社会性です。

at 19:00, 不死川 浄, -

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まったく私なし

 浄土真宗の信心や念仏はまったく私なしです。少しでも我が入っていたら信心でも念仏でもないのです。すべて阿弥陀如来のはたらきです。絶対他力です。信心は私が如来さまを信じるのではありません。如来さまが信じさせてくださるのです。念仏は如来さまが私の口から出てくださるのです。日本画家の東山魁夷さんが「自分の我があったら本当に美しい絵は生まれないのです」と述べていられるように、我がある限りは、本当に美しい世界とか真理には出遇えないのです。花を本当に美しいと感じたときは、私が花を美しいと思うのではなく、花の美しさに私が捉えられたのです。私が如来さまを信じて救われるのではなく、如来さまの「必ず救う、まかせよ」という摂取不捨の大慈悲心に我が破られていくのです。私が信じていると思っているあいだは、まだ真理と出遇っていないのです。私が信じて救われるのではなく、「必ず救う、まかせよ」という如来さまの仰せに救われていくのです。

at 19:23, 不死川 浄, -

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煩悩具足

 私たちは愚痴や悪口は、小さい時から習っていないのに、縁あるごとに言ってしまっています。何故か?それはもともと身についているからです。それを煩悩具足(ぼんのうぐそく)といいます。もともと身についているから、無くそうとしても無くならないのです。それ故に煩悩は無くそうとしてはいけないのです。無くそうとすればするほど苦しむのです。無くなるはずはないのに無くそうとするから苦しむのです。「掃けば散り、払えばまたも散り積もる、人の心も庭の落ち葉も」です。煩悩は見えたらいいのです。見えたら煩悩に振り回されなくなります。「自分の頭に角が見えたら、怒りは静まるのです」。ただ自分では煩悩が見えないのです。仏の光に照らされなければ見えないのです。仏法を聞き、どこまでも煩悩具足の凡夫であったと気づかせていただくのです。あるお婆さんの言葉です。「仏法を聞いていいもんになろうと20年頑張ってきましたが、やっとダメなもんやということがわかってきました。ダメなもんやということがわかって、はじめて仏法が身についてきました」。私たちの固い自我の心のドアーが開き、仏さまが入ってくださり、仏さまが同居してくだされば、縁あるごとにお念仏(仏さま)が口から出てくださるのです。

at 16:38, 不死川 浄, -

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我を破る

 「自我・我執オレと一生つきあう相手」「またしても私、私という私、八十路を超えたいまとなっても」と言われるように、死ぬまで人間にとって「我」はなくなりません。我が身が一番かわいいし、どこまでも自分中心に生き、自我のメガネをかけて生きています。苦しみとは、我が思い通りにならないことであり、人間は人に負けたくない、少しでもよく見られたい、バカにされたくない、誉められたい、死にたくないとか「我を張って」生きています。我がすべての苦しみの元なのです。この厄介な我というものを、いかに始末するかということが宗教の根本問題です。死ぬまで我は無くなりませんが、我は破られるのです。我が破られなければ救いはないのです。虚しく寂しく死ぬだけです。仏教は我を破る教えです。しかし我というものは自分の力ではどんなに頑張っても破れないのです。阿弥陀如来の力によって初めて破れるのです。卵の殻が、親に抱かれ、温められ、育てられて割れるように、阿弥陀さまの慈悲と智慧のはたらきにより我が破れるのです。我が破れ阿弥陀さまが私の中に入ってきてくださることが信心です。私の中に同居して、我の無くならない私をいつも支え続けて浄土への道を歩まさせてくださっているのです。

at 14:52, 不死川 浄, -

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チベット死者の書

 チベット死者の書に「誕生のとき、お前は泣き、全世界は喜びに沸いた」「死ぬとき、全世界は泣き、お前は喜びに溢れる」とあります。私たちは誕生のとき、大声を張り上げて泣いて誕生します。周りの世界は喜びに沸いています。しかし死ぬとき、喜びに溢れているだろうか。虚しく寂しく死んでいないだろうか。お釈迦様の涅槃図には、人間や動物、全世界が泣いていますが、お釈迦様は涅槃には入られ喜びに溢れているように思います。往生とは死ぬことではありません。往(ゆ)き生まれることです。誕生です。めでたいことです。仏教の目的は、仏に成ることです。「死ぬとき、全世界は泣き、お前は喜びに溢れる」人に成ることです。いのちの行方、人生の目的地が決まっていたら、死ぬことが怖くなくなります。私たちはどこに向かって生きているのか、どこに行くのか、帰する処がなければ虚しく寂しく死ぬだけです。その私たちに、真理が如来となり念仏となって、「必ずお前を仏にする、浄土へ連れて帰る、まかせよ」とよび続けていられるのです。

at 01:48, 不死川 浄, -

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真理は一つ

 「真理は一つ、切り口の違いで争わぬ」という言葉に出遇いました。真理は一つです。真理とはありのままの世界であり、永遠に変わらない不変の道理であり、いつの時代でも、どこの国でも、誰にでも通用する法則です。お釈迦様は、この真理に目覚められて「仏陀」「覚者」となられたのです。宗教とは、真理を求め真理に生きることを目的としています。世界中に多くの宗教があります。仏教も多くの教えに分かれています。ただ一つの真理をどう受け止め、どう展開したかの切り口の違いです。私にはこの切り口の教えが一番ふさわしいと、人それぞれご縁や経験や性格により、自分にふさわしい教えを選べばいいのです。切り口の違いで争ってはいけないのです。他の教えを裁いたり批判してはいけないのです。謙虚になり認め合って、互いの切り口を尊重しなければいけないのです。

at 02:42, 不死川 浄, -

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執着を捨てる

 いま連日報道されているアメフト問題。日大側が何としても守りたいのは、悪質タックルの「指示」をしていないということ。もし認めたらスポーツではなくなるし、いま以上に批判されることになり、前監督・コーチも要職を辞め、アメフト協会からも永久追放を受けることでしょう。それゆえに自分の立場に執着しているのです。それに対してタックルした選手は、自分の非を認め、批判されても、罰せられてもいいと覚悟し、「私にはもうアメフトをする権利はありません。もう二度とするつもりはありません」と執着を捨てて真摯に告白して、その態度は清々しく多くの人に感銘を与えていました。人間は自分の立場に執着している時は自分を守ろうとして隠そうとするものです。しかし執着を捨てれば、何もかも失うかもしれないが、人間として力強く生きることが出来、マイナスがいつか必ずプラスになるのです。前監督も「私の指示でした。勝利至上主義にとらわれスポーツ精神に反していました」と執着を捨て、心から謝罪をすれば、まだまだ救いがあり、いろいろな面で希望が見えてきます。

at 23:09, 不死川 浄, -

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