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縁ということ

 縁という言葉にはいろいろな意味があるが、仏教でいう縁とは縁起の縁であり、条件・出あい・関係性・相依性の意味があり、すべての存在は何一つとして独立した存在ではなく、時間的にも空間的にも互いに因となり縁となり互いにもちつもたれつの関係によって存在していることを教えています。人という字が教えているように、AがあるのはBがあるからで、BがあるのもAがあるからで、AもBもなければどちらも存在しません。またどんなに良いことをしたからといっても、良い結果になるとは限りません。そこにはいろいろな条件が入っています。何故そんな結果になったかを正しく知らねばなりません。仏教では「縁起がいい」とか「縁起が悪い」ということは言いません。良いことも悪いこともいただいたご縁です。それを受け止めるのです。「私」という存在は、すべてご縁によって存在しているのに、ご縁の前に「私」がいるから、良いご縁が欲しくて悪いご縁は欲しくないという身勝手な心が動くのです。いのちの事実を受け取ることが出来ないのです。生きていれば必ず苦しみに出会います。それもいただいたご縁です。そのいただいたご縁をどう受け止めるのか、どう乗り越えていくかが生きるということです。良いご縁だけ欲しくて悪いご縁は欲しくないと願っていれば、寂しい人生となります。

at 17:01, 不死川 浄, -

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真実かどうか

 真実に生きるとは、常に真実かどうかを問い続けて生きることです。「私は真実に生きている」と思っている人は、とてもヤッカイナ人です。自分という者を知らない人です。夏目漱石『こころ』の中に「平生はみな善人だ、しかし利害が絡むと人間の心はどう変わるかわからない」とあるように、人間の心は縁次第、状況次第でどう変わるかわかりません。どんなに大好きな人でも、裏切られると心はどう変わるかわかりません。あるお父さんの告白です。「息子が交通事故に遇い、病院へ急いでいくと瀕死の状態であった。医者の話によると、とても危ない状態です。もし仮に治ったとしてももとの状態には戻りません、とのことだった。しかし親として何としても助けて欲しい、治して欲しいと必死にお願いしました。一週間たっても意識は戻らなかった。看病で疲れてきたせいか私の心に、もし意識が戻ったとしてももとの状態には戻れないし、私たち老夫婦では看病もあまりできない。そう思うとこのまま逝ってくれた方がこの子にとって幸せではないかと。その夜、意識は戻らずそのまま亡くなったそうです。大事な大事な息子です。しかし私の都合が悪くなるとその息子さえこのまま逝ってくれた方が幸せでないかと願う、本当に身勝手な、恐ろしい私でした」と。人間の心は縁次第でどう変わるかわかりません。決して変わらない真実の心はありません。それ故にこそ決して変わらない真実なる仏さまを生きる支えとして生きることが仏教に生きることです。仏さまに導かれ、叱られ、育てられ、支えられていく人生です。

at 16:24, 不死川 浄, -

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ご縁一つで

 人間の心は面白い。ご縁一つでコロコロ変わる。喜んでいても、悲しいご縁に会うと悲しくなる。楽しく遊んでいても、急に悲しい知らせが来ると悲しくなる。喜んでいる時、他人から嫌な言葉を浴びせられたら腹が立ちます。外出が面倒な時でも、大好きな人に誘われると喜んで外出します。本当にご縁一つでどう変わるかわかりません。ここで大切なことは、私が喜んだり、悲しんだり、腹を立てるのではありません。喜ぶご縁、悲しむご縁、腹を立てるご縁に出会ったから喜んだり、悲しんだりするのです。しかしその事実に気づかず、ご縁をいただく私が私が先にいるから、私が喜んだり、悲しんだりと思い、ご縁をいただくということが出来ず、都合のいいご縁だけ欲しくて、都合の悪いご縁はいただけず、良い縁だけ欲しくて、悪い縁は欲しくないと思うのです。これが現世利益信仰の原点です。仏や神に「どうか良い縁が来て悪いご縁は来ないように」と祈願するのです。本当に勝手なものです。生きていれば必ず悲しい、苦しいご縁にも会います。その経験や体験を通して人は育つのです。学ぶのです。強くなるのです。仏さまとは、人間の勝手な願いを叶える存在ではありません。苦しみを受け止め、苦しみを乗り越えていく道を示してくださっているのです。

at 17:46, 不死川 浄, -

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ご縁に生きる

 先日久しぶりに故郷に帰った時、どうして私はここで生まれたんだろうと思った。この時代に、父と母をご縁として、この私として生まれた。天皇家に生まれたのも、寺の子として生まれたのも、農家や漁師の子として生まれたのも、自分の意志ではない。それぞれご縁として受け入れ、この私として精一杯生き抜くしかない。どんな生き物でも同じだ。蛇や蛙に生まれたのも、犬や猫や猿で生まれたのも自分の意志ではない、ご縁です。人間だけが、何故こんな私に、こんな顔に、こんな家に、こんな時代にと不服を言うが、他の生き物は不服を言わない。それぞれ自分を引き受けて生きている。この時代に、この地に、この私として生まれたのも、やはり意味があると思う。一人一人みな同じです。みな意味があると思う。そう思うと「私が私であってよかった」という私でなければいけないと思う。それが生まれてきた意味ではないだろうか。いま無量の寿(いのち)、無数のご縁によって生かされている私たち、この世に生きるご縁が尽きれば、いま私を私として生かしてくれている無量寿の世界に、いのちの故郷に帰るのです。安心して帰る世界があるのです。この世にいのちある限り、どんな状況になってもこの私として精一杯生き抜いていきましょう。

at 02:04, 不死川 浄, -

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縁起ということ

 縁起とは仏教の中心思想であり、釈尊はこの縁起に目覚めて仏になられたのです。縁起とはすべての存在は縁によって起こっているということです。私という存在も縁によって起こっているのであり、私という実体はないのです。無我であり、空なのです。「色即是空」という言葉がありますが、色すなわち形あるものはすべて縁によって起こっているのであり空であるということです。よく「縁起が良い」とか、「縁起が悪い」とか自分の都合で言っていますが、これは間違った使い方であり、仏教で説く縁起とは私たちはみな縁によって存在しているということです。良いことも悪いこともご縁なのです。私たちは縁によって生まれ、縁によって育ち、縁によって死んでいくのです。生きていればいろいろなご縁に会います。辛く・悲しい・苦しいご縁にも会います。喜ぶご縁にも会えば腹を立てるご縁にも会います。自分が喜んだり腹を立てるのではありません。喜ぶご縁に会ったから喜ぶのであり、腹を立てるご縁に会ったから腹を立てるのです。これはとても大事なことです。この事実に気づかないから迷うのです。ご縁を生かせないのです。「順境におごらず、逆境におちこまない」「逆境が人を育てる」と言われるように、逆境すなわち辛い・苦しい・悲しいご縁によって育てられ、学び、強くなり、成熟していくのです。逆縁を生かすのです。仏や神に「どうか良いご縁が来て、悪いご縁が来ないように」「福は内、鬼は外」とお願いするのではなく、今日は「こんな苦しい悲しいご縁をいただきました」と手を合わせていくのです。

at 16:47, 不死川 浄, -

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浄土真宗ってどんな教え

 「浄土真宗ってどんな教えですか?」「ただ念仏ひとつです」「どうして念仏を称えたぐらいで救われるのですか?」「阿弥陀如来という仏さまは、苦しんでいる人々を必ず救うという願いをおこされ、どうすれば救うことが出来るかを長い間考え抜き、阿弥陀如来が南無阿弥陀仏という念仏になってくださったのです」「なぜ阿弥陀如来は念仏になられたのですか?」「それは人間の器量を見抜き、死ぬまで煩悩の無くならない人々を救うには、無条件の救い、そのままの救いでなければ救われないと見抜かれたからです」「なぜ念仏でなければ救われないのですか?」「そのままの貴方を救うという教えでなければ煩悩いっぱいの私たちは救われないからです。念仏とは阿弥陀如来が『必ず救う、我にまかせよ、決して見捨てない』という願いをこめ、我が名を称えて生きておくれとよび続けてくださっているのです」「なぜ念仏を称えることが無条件・そのままの救いなんですか?」「私たちの口から念仏を称えるのですが、阿弥陀さまが称えさせ、私たちの口から出てくださっているのです。普段は悪口や愚痴しか言わない私たちの口から仏さまが出てくださっているのです。私が称える念仏ですが、阿弥陀さまのよび声なのです。そのよび声を聞いて生きるのです」「念仏って聞くものなんですか?」「そうです私たちの口で称えて耳で聞いていくのです。いつも一緒です。どんな時でも阿弥陀さまは支えになってくださっています。どうか念仏を称えて阿弥陀さまの声を聞いて生き抜いていきましょう」

at 22:41, 不死川 浄, -

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口で称えて耳で聞く

 念仏とは聞くものです。口で称えて耳で聞くのです。阿弥陀如来が南無阿弥陀仏となり私たちの口から出て耳で聞けるようにしてくださり、「我が名を称えて生きておくれ、必ず救う、まかせよ」という阿弥陀如来のよび声を、叫びを、願いを、心を聞くのです。『ご和讃』に「弥陀回向のみ名なれば功徳は十方にみちたまう」とあるように、名にすべての功徳を込めてよび続けてくださっているのです。ちょうどお母さんが、赤ちゃんに「私がお母さんよ」と名のる中に母親の愛情がすべてこめられているように。名というのはスゴイ力を持っています。その人のすべてが名の中に含まれています。ドリカムの「何度でも」という歌詞に「何度でも何度でも何度でも、立ち上がりよぶよ君の名前声がかれるまで・・」とあります。槇原敬之さんの「remennber my name」という歌詞に 「僕の名前をよべば孤独は君に近づけない・・・もし君の心が悲しみの海の底に沈むなら僕は腕利きのダイバーになって、どんなに深くても君を見つけに行くよplease call my name」とあります。何度でも何度でも念仏を称えて仏さまのよび声を聞いてください。決して孤独は近づけないし、辛く、苦しい、悲しい時、生きる支えとなり、安らぎをにじませてくださいます。

at 16:01, 不死川 浄, -

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いのちの故郷へ

 最近姿を見せないから気になっていて、兄のアパートへ行ってみるとお風呂の中で亡くなっていた。72年の生涯でした。永遠のいのちの世界、両親の待ついのちの故郷へ帰って行きました。たぶんヒートシヨックでしょう。お風呂で亡くなる人は本当に多いです。年間19000人で交通事故死よりずっと多いそうです。念仏者は、いつ、どこで、どんな死に方をするか問題ないのですが、本人が一番無念であったでしょう。もう少しでインドへ行けるかもしれないという期待があったから。もう一度インドへ行かせてあげたかったです。インドへ行くために健康にも気を付けていたのに残念です。思えば大きな夢を追い続けた人生でした。砕かれても砕かれても少年のように夢を追い続け、私に夢を語っていました。「夢を持つんだね、夢で終わってもいいじゃないか、人生はそれだけ豊かになる」という言葉があるように、夢で終わった人生ですが豊かな人生だったと思います。「花びらは散っても花は散らない。形は滅びても人は死なぬ」金子大栄師の言葉ですが、いまこの言葉が無性に心に響きます。生きている時は世話ばかりかける兄でしたが、一生私の心に生き続けていることでしょう。「ご往生おめでとうございます」と送ってあげました。

at 20:19, 不死川 浄, -

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自分に執着しない

 自分に執着しない。自分に執われないようにしたいとつねに思っています。出来ないけれどそうありたいと願っています。自分に執着すればするほど、死ぬことが怖くなり、世間の評価が気になり、自分を見失うことになります。若い時から自意識過剰で、自分の話したこと、行動したこと、自分の姿に執われすぎていた。自分に執われるということは、それだけ他人の目や世間の評価を気にして、少しでも自分をよく見てもらおうと振る舞い、自分自身を見失い、自分を生きていなかった。人倫の嘲りが恥ずかしかったのです。そして問題はそういう自分に少しも気づいていなかったことです。仏法を通して少しづつ気づかしてもらうようになりました。いま念仏に遇い、あまり他人の目や世間の評価が気ならなくなりました。とても楽になりました。自分を生きているという喜びがあります。ありのままに生きたい。どんなに頑張ってもなるようにしかなりません。執着心は無くなることはないが、また自分に執着していたなと気づく私でありたいし、人倫の嘲りを恥ずかしくない人生を生きたいです。

at 15:00, 不死川 浄, -

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気づくということ

 気づくということは、自分で気づくのではない。必ず気づかしてくれるはたらきがあるから気づくのです。いろいろなご縁があって気づくのです。問題意識を持っていたりアンテナを張っていると、突然ハッと気づかせてもらうこともよくあります。念仏を称えることも、自分が称えるのではない。称えさせるはたらきがあるから称えるのです。自分の口から称えるのですが、阿弥陀如来のはたらきによって称えさせてもらっているのです。念仏を称えることは人間の行(仕事)ではなく仏さまの行(仕事)なのです。親鸞聖人は「非行非善なり」と厳しく教えられています。すなわち念仏を称えることは人間がする行でもなく善根でもないのです。『歎異抄』第一章に「念仏申さんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたもうなり」とあるように、念仏を称えようという思いの起こるとき、ただちに光明(ひかり)のうちに摂(おさ)め取って捨てられないというご利益をいただくのです。阿弥陀如来が、念仏となり「我が名を称えてくれ、必ず救う」とはたらき続けていられるのです。念仏を称えて生きていきましょう。

at 17:07, 不死川 浄, -

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