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煩悩あればこそ

 煩悩あればこそ、間違いなく救われるのです。いくら念仏を喜んでも、まだまだ娑婆には未練はあります。私も出来るなら80・90歳まで生きたいです。親鸞聖人も、「まだまだ娑婆は捨てがたく、安養の浄土は少しも恋しくない。それはどこまでも煩悩が盛んであるからです。しかし娑婆の縁尽きて、力なくして終わる時、必ず浄土へ参ることができるのです。阿弥陀さまは急いで浄土へ参りたき心なき煩悩具足の凡夫を必ず救うとはたらき続けてくださっているからです。それを思うにつけても、阿弥陀さまの大悲・大願はたのもしく、往生は間違いない」と教えてくださっています。煩悩あればこそ救われるのです。煩悩いっぱいの私たちを救うというところに、阿弥陀という仏さまが存在してくださっているのです。煩悩がなかったら救われないのです。私たちは死ぬまで煩悩いっぱいで、自我中心にしか生きれません。いつも仏さまに背いて生きています。その私たちを悲しみ、念仏となり「決して見捨てない、必ず救う」とよび続けてくださっているのです。「救われぬ身に、沁みわたる弥陀の声」「称えても、称えても、また称えても弥陀の声」です。

at 18:01, 不死川 浄, -

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いかに死を超えていくか

 いま厚生労働省では、もしものときに医療やケアーについてどうするかを前もって話し合っておくべきという「人生会議」を薦めていますが、いま一人暮らしの人が多く、誰とも話す人がいないという人が多いです。この現実の中で、如何に自分の死を迎えるか、そして死をどう超えていくかを、ひとり一人見つめていくことがとても大切なことです。仏教では「生死いづべき道」を教えています。安心して生き、安心して死んでいける道です。どうすれば安心して死んでいけるか。まず命の帰っていく処、人生の目的地を知ることです。そしてどんな時でも私を支え、導いているハタラキがあることに気づくのです。いつ、どこで、どんな死に方をするかわからない身です。縁次第でどうなるかわかりません。私たちの命は自分のものではありません。自分の命と思うから死が怖いのです。自分の意志で生まれたのではありません。自分の身体どれ一つ自分で作ったものはありません。寝ている時も心臓や肺や腸も動いています。動かしているものは何か。自分で歳を重ね老いていくのではありません。何もしなくても寝たきりになっても、歳を重ね老いていきます。一週間何も食べず飲まなかったら生きていけません。いま私を生かしているものは何かを知るべきです。無量の寿(いのち)、無量の縁によって生かされているいのちです。死ぬ縁が来たら、いま私を生かしている無量寿の世界へ帰らしてもらうのです。

at 02:13, 不死川 浄, -

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安心に生きる

「安心」して生きるには「支え」がなければ生きていけない。何事でも、支えがあってこそ安心して自由に生きることが出来るのです。たとえば経済的な支えがなければ、生きていくうえに何かと不安です。経済的な支えがあっても、精神的な支えがなければ淋しいです。子供が安心して自由に生きれるには、親の支えがあってこそです。社会的な支えがなければ、安心して外に出ることが出来ません。会社や家族の支えがあってこそ、安心して自由に働けます。どんなに強がっても支えがなければ生きていくことが苦しいです。いま安心して自由に生きれるのは、眼に見えない大きな支えに守られているからです。しかしこの無常の世の中では、いつ今まで支えにしていたものが無くなるかもしれない。天災、倒産、事故、病気、親しい人との別れにより、支えを失えば目の前が真っ暗になります。それ故にこそ、元気な時から決して壊れることのない、変わることのない確かなものを支えとして生きることが大事です。阿弥陀如来という仏さまは念仏となり、「いつでも、どこでも、どんな時でも、あなたを支える」とよび続けてくださっているのです。しかも私たちの口から、私たちの口を通して、よび続けてくださっているのです。「称えても、称えても、また称えても弥陀のよび声」(浅原才一)です。念仏を称えてください。念仏が「どんな時もあなたを支える」と呼んでくださっているのです。自分で念仏を称えて、仏さまの声が聞こえたら、本当に安心です。苦しみのなか生き抜くことが出来ます。

at 15:57, 不死川 浄, -

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ついに死の勝利を得た

 今年の報恩講に岡山県の小児科医の駒沢勝先生をお招きしてお話をしていただきました。小児科医になって1000人ほどの子供の死に直面し、「死ぬ子は死んでいい、不治の病の子は不治の病のままで死んでいい」という世界を求めるようになった。それ以外に子供たちの立つ瀬がないからである。あるお母さんは、苦しみ苦しみの中で亡くなった我が子に「ついに死の勝利を得た」と叫ばれたそうです。長い苦しみから解放された言葉でしょう。それはお母さんの出産の苦しみから我が子の誕生に近いものです。人間はいつも欲望という色眼鏡をかけて「生が良くて死が悪い」「健康が良くて病気が悪い」という見方をしています。眼が見えるようになりたい、耳が聞こえるようになりたいという欲望があるから、眼が見えない耳が聞こえないことが悲惨に思えるのです。私たちは「これは嫌だ、こうあって欲しい」という欲望の色眼鏡をかけて物事を見ています。しかし阿弥陀さまは、「生が良くて死が悪い」「健康が良くて病気が悪い」という色眼鏡をかけていられません。阿弥陀さまは色眼鏡をかけずに、ありのまま物事を見られ、どんな状況になっても「そのままでいい」と支えてくださっています。色眼鏡をかけて生きている私たちは、いつも阿弥陀さまに背き、反逆して生きているのです。駒沢先生は「阿弥陀さまに反逆すること以外生きる道のない私が、「そのままでいい」と阿弥陀さまに支えられている。それが私の存在の基盤であり、真の救いです」と話されていました。

at 19:49, 不死川 浄, -

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枠を越える

 仏教、キリスト教、イスラム教の枠を超えて、何が真実か、何が人間の救いかを、まず第一に考えなければいけない。仏教もたくさんの宗旨・宗派に分かれているが、枠にとらわれて真実を見失ってはいけない。釈尊も親鸞聖人もまったく教団という組織をを作る意思はなかった。もちろん組織を作ったおかげで長く続き、多くの人に伝わった恩恵はあるが、組織を作るとどうしても組織を守ることにとらわれ大切なことを見失ってしまう。いま個々の宗教というものは卒業し、宗教の枠を超えて人間の救済を伝えていこうという声を耳にするようになりました。その方がより自分の所属している宗教が本当に人間を救うことが出来るかを考えるようになります。「真理は一つ、入り口が違うだけ」という言葉を聞きました。入口にとらわれてしまうと真理を求めることを忘れてしまうのです。人間はすぐにいろいろな所で枠・壁・垣根を作り争っています。本来仏教の無我の教えはその枠・壁・垣根を越えていくことを教えています。まず私自身が、その枠にとらわれ縛られていないかを見つめていかなければいけないのです。

at 16:13, 不死川 浄, -

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絶対的な支え

 「自由と支えは表裏の関係」「自由に生きるには絶対的な支えが必要」「自分を支えてくれるものがあるという確信のようなものが、人間の自由を支えるのです」上田紀行著『立て直す力』より。無条件に、絶対的に支えてくれるものがあれば安心で、幸か不幸か、成功しても失敗しても、どっちに転んでも大丈夫という自由の身になることができます。何が私を絶対的に支えてくれるのか、自分をどんなことがあっても支えてくれるものをもてば生きる力となります。阿弥陀さまの立像は、「どんなことがあっても必ずあなたを支える」というはたらきを表わしています。念仏は「無条件に、絶対的に、あなたを支える」という阿弥陀さまのよび声です。いつでもよび続けてくださっています。そのよび声に応えて「ありがとう」と念仏を称えましょう。「無条件に、絶対的に、あなたを支える」という阿弥陀さまの心をいただくことが信心です。仏の大地に樹(た)って生きるのです。大地にしっかりと根を張って生きるのです。ある人の言葉です「これから先の人生、幸か不幸か知らねども、どちらになってもよろしいと確かな覚悟が出来ました。」

at 18:11, 不死川 浄, -

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煩悩は無くそうとしないこと

 煩悩とは、身を煩わし心を悩ます浅ましいものです。無くなるものなら無くなってほしいです。しかし煩悩は無くそうとしないことです。無くそうとしても無くなるものではない。無くそうとするから苦しむのです。煩悩は見えたらいいのです。仏さまに煩悩を見つめさせてもらい歩むのです。煩悩と向き合えば、煩悩に支配され、振り回されることはありません。阿弥陀さまは、私たちが煩悩いっぱいの凡夫と見抜いて、煩悩を持ったままの私たちをそのまま救おうとはたらいてくださっています。もし煩悩が無くなれば仏さまの仕事は無くなり、仏さまと縁が切れるのです。また少しでも煩悩が無くなったと思えば、頭が上がり、うぬぼれ、善人顔して自分を見失うのです。ある人の言葉です「仏法を聞いて、いいもんになろうと頑張ってきたが、やっとダメなもんやということがわかりました。ダメなもんやということがわかって、はじめて仏法が身についてきました。」 この煩悩があればこそ、この煩悩を仏さまの光に照らされ見つめさせていただき、仏さまとともにこの人生を歩まさせていただくのです。

at 15:00, 不死川 浄, -

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目覚めていく教え

 宗教とは、人間の力を超えた仏や神にすがって安心やご利益を得るものと思っている人が多いが、仏教は違います。仏とは、目覚めた人、覚者というように、この世の真理・自然の道理・いのちの事実に目覚めていく教えです。仏教とは、目覚めた人の教えを聞いて、自然の道理に目覚めて苦しみを乗り越えていく教えです。目覚めがなければ生きる力にならないし、本当の安心を得ることはできません。「弥陀仏は、自然のようをしらせんりょうなり」といわれるように、阿弥陀仏とは、智慧と慈悲により人間を目覚めさせるハタラキです。私たちに自然の道理を知らせんがためにはたらき続けていられるのです。ただ仏や神にすがって安心やご利益を得るのではありません。仏のはたらきによリ、今まで見えなかったこと、気づかなかったこと、大切なことに目覚めていくのです。仏さまとともに、支えられ、導かれ、気づかされながら、ともに歩んでいくのです。

at 01:01, 不死川 浄, -

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お母さんが一緒

 先日の『本願寺新報』に掲載されていた、「報恩講によせて」の法話はとても分かりやすく興味深かったです。「私たちは本来孤独であって、みんなひとりで生まれて一人で死んでいくのだけれども、どんな時もアミダさまがご一緒です」。 「アミダさまとご一緒」というよりも、「アミダさまがご一緒」なのですと教えられ、テレビで「おかあさんといっしょ」という番組があるが、「お母さんと一緒」と言った時と、「お母さんが一緒」と言った時の違いを述べて説明されていました。「お母さんと一緒」という言い方は、「私がお母さんと一緒に居る」という意味で、私が主人公の話で、私から出発する話ですから、私がお母さんと一緒に居たくて居る感じがします。それに対して「お母さんが一緒」という言い方は、「お母さんが私と一緒に居てくれる」という意味で、お母さんが主人公の話で、お母さんから出発する話です。私がお母さんを忘れていても、お母さんは私を忘れることなく一緒に居てくださるわけです。同じように、「アミダさまとご一緒」というのは、「私がアミダさまとご一緒する」という意味で、私が主人公の話で、私から出発する話です。しかし「アミダさまがご一緒」というのは、「アミダさまが私とご一緒下さる」という意味で、アミダさまが主人公の話で、アミダさまから出発する話です。ではなぜアミダさまはご一緒くださるのでしょうか。それは私たちがさびしい命を生きているからです。人はみな、死ぬ時はたった一人です。今まで支えにしていたもののすべてが、私を見放します。また生きている今、たった一人になることもあります。あらゆる支えを失って、自分で自分を見捨ててしまうような気持になることもあります。しかし、たとえ世の中の全てに見放されたとしても、自分で自分を見捨てるようになったとしても、アミダさまだけは私を見捨てることなくご一緒くださるのです。と述べられていました。

at 15:39, 不死川 浄, -

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ゲバラの言葉

 八月の末にキューバに行き、ゲバラの人気に驚いた。死後50年もたっているのにゲバラの人気は衰えていない。先日BSで「世界で一番アツい日。100万人の大行進」を見た。毎年5月1日のメーデー。60年も続いているそうだ。このメーデーは日本と違い、労働環境の改善や賃金アップの要求ではなく、キューバの革命を祝い、キューバ人の団結を確認し、平等で人道的な社会の実現を目指す集会である。この行進の中に医師たちもたくさん参加していた。しかも海外からも。これは「ゲバラの言葉」が医師たちの心の支えになっているからである。「一人の人間の命は、地球上でもっとも豊かな人間の全財産よりも、100万倍の価値がある」「隣人のために尽くす誇りは、高い所得を得るよりも、はるかに大切だ」。行進に参加していた医師の言葉「私たちは人々の健康に尽くす医師、ゲバラの思想を受け継ぐ存在です。ゲバラの精神がいまここに生きていることが確認できたから今日は最高に幸せな一日です」と嬉しそうに話していた。そして「自分の生活を最優先すると人は過ちを犯します。もっと見返りがあるはずと考えてしまうのです」と話した言葉が印象的であった。実際自分の生活を最優先し、もっと高い報酬を得るために亡命をしている人も多発しているそうである。いまキューバはアメリカから経済封鎖をされ生活は苦しいから海外に出る人も多い。ある高校生は「いまの現状では将来は海外で働きたい。もっと報酬が上がれば残りたい。キューバは隣人同士助けあう、愛にあふれている国です」と話していた。これからキューバはどの方向に進むのだろう。しかし100万人の大行進のメーデーが続いているあいだは革命の精神を受け継いで進むことでしょう。

at 18:21, 不死川 浄, -

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