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私の念仏・仏の念仏

 仏法を聞いていない人の念仏、仏法がまだ届いていない人の念仏、自力の念仏は、念仏を称える主体は私であり、私の念仏です。しかし親鸞聖人が伝えてくださった他力の念仏は、念仏を称える主体は阿弥陀如来です。阿弥陀さまが私たちを救うには念仏になるしかないと見抜かれて、南無阿弥陀仏となり、私の口から出てくださっているのです。もちろん私が称えているのですが、阿弥陀さまが称えさせてくださっているのです。だから念仏一つで救われるのです。私の念仏をいくら心を込めて一生懸命称えても、そこには喜びも安心もありません。。他力の念仏は、念仏を称えるときはいつも阿弥陀さまが一緒です。つらい時、苦しい時、悲しい時、どんな時もいつも阿弥陀さまが一緒にいらっしゃるのです。私たちが苦しい時ほど、私たちの口から出てくださるのです。本当に苦しくてどうにもならない時、例えば特攻兵士が出撃のとき「お母さん」と叫んだ人が多いと聞きましたが、「お母さん」がいつも一緒だよと口から出てくださったのです。お母さんの温もりが伝わっているからお母さんが口から出てくださったように、阿弥陀さまの摂取不捨のお慈悲が温もりが伝わっていれば、おのずと口から出て喜びと安らぎを与えてくださるのです。「み仏のみ名をおのずと呼ばしめて、安けき心にじませたまふ」藤原正遠師

at 00:32, 不死川 浄, -

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すでに救いあり

 すでに救いありです。救いはもう届いているのです。気づかないのです。救いはもう届いているから、どうしたら助かるのかを考えなくていいのです。よく聞いたら助かるのではないのです。もう救いが届いていることを聞くのです。私たちの救いは、阿弥陀如来が念仏になられたことによって成就しているのです。阿弥陀如来は、生死の苦海に久しく沈んでいる私のところに来て、「マカセヨ、必ず救う」「さあ早く弥陀の船に乗りなさい」とよび続けて下さっているのです。ただ「ハイ、ありがとう」と応えたらいいのです。何故「ハイ」と言えないのか。それは自分が生死の苦海に沈んでいることに気づいていないからです。『歎異抄』3条に「自力作善の人は、他力をたのむ心かけたる」とあるように、まだまだ自分を善人と思っている人には、弥陀のよび声が少しも聞こえてこないのです。まかそうとしないのです。しかし自力では到底救われない罪悪深重の凡夫であることに気づくと、「マカセヨ、必ず救う」という弥陀のよび声が我が身に沁みてくるのです。大峯顕先生は「私が助かる証拠は、阿弥陀さまが『必ずお前を助ける』と仰っているからです」と話されていました。

at 01:22, 不死川 浄, -

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槍は通すもの

 先日のテレビ番組で聞いた話です。ある女性が大事な用事で京都から山形へ列車で行く途中、金沢あたりで大雪になり列車が進むことが出来ず引き返すことになった。どうしても山形まで行かねばならない女性が「やりきれないわ」と叫ぶと、横にいた紳士が「槍は切るものではありません。槍は通すものです」と静かに話したそうです。もうあきらめて帰ろうかと思っていた心が、その言葉を聞いて「やりとうそう」と思い返し、東京に回り別の便で予定より何時間もかかり山形に着いたそうです。無事山形に着いた女性は、現地の人から、約束を守るとても意志の強い女性だと褒められたそうです。その女性は、「槍は通すものです」という紳士の言葉がなかったらきっと諦めていたでしょうと話していました。心が折れかけていた時、たとえダジャレでも心に響く言葉に出会うと生きる力となります。生きていれば「遣り切れない」「どうにもならない」ことは何度も出会います。その時に支えてくれる言葉、生きる力を与えてくれる言葉、悲しみ寄り添ってくれる言葉に出遇いたいものです。

at 15:25, 不死川 浄, -

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感謝について

 「縁起」ということは仏教の中心思想ですが、よく「縁起がいい」とか「縁起が悪い」という言葉を聞きますが、これは仏教でいう縁起ではありません。縁起の前に「私」が先にいるので自分の都合で判断しているのです。良いことも悪いこともご縁です。いただきものです。そのご縁を受け止めて生きることを教えています。受け止めると悪いと思っていたご縁も必ず生きてきます。「感謝」ということも、私たちが言う感謝は、都合の良いことだけ感謝し、都合の悪いことは感謝できない。この感謝なら、喜んでいても都合が悪くなればすぐに愚痴や恨みになります。感謝とはいますでにいただいている恩恵に気づくことです。天地自然の恵み、無量のいのちに支えられ生かされていることに目覚めることです。仏や神にお参りするのは、お願いではなくお礼です。いまいただいているいのちの真実に感謝せず、もっと欲しいというのは我欲の満足に過ぎません。いのちの真実に出遇わないと感謝といっても駄目なのです。人間は慣れてくると「おかげさま」を忘れ、「あたりまえ」になり感謝する心を忘れて、自分の力だけで生きていると錯覚し傲慢になります。この錯覚が我欲を求め、人間同士の争いを起こします。この世で最も不幸なことは感謝の心がないことです。それ故にこそ、謙虚に仏さまの教えを聞かねばならないのです。

at 17:46, 不死川 浄, -

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いのちも預かりもの

 前回「自分の金も財産も、世の中からの預かりもの」と松下氏の言葉を書きましたが、「いのち」も預かりものです。自分の所有物ではありません。私たちは不思議なご縁でこの世に生まれてきました。いま生きている私たちのいのちは無量のご縁で生かされています。いただいているご縁を全部取り外したら何もありません。何もないということが「空」ということです。私がご縁によって生きているのではなく、ご縁によって私が生きているのです。ご縁の前に「私」を先に入れるといのちの事実を見失います。「私」そのものがご縁によって生きているのです。縁次第でいつ死んでもおかしくないいのちです。いま生きているというのは、生きるご縁があるからです。死のご縁が来たら、いま私を生かしている無量寿の世界へ帰るのです。預かっているいのちのお返しです。本当に不思議なご縁で人間として、この私としてこの世に生まれてきました。二度とない人生です。預かっている限り、悔いなく、大切に、精いっぱい生き抜いて生きたいものです。「死に向かって生きているのではない。今をもらって生きているのです。今ゼロであって当然の私が今生きている」(鈴木章子)

 

at 18:43, 不死川 浄, -

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世の中からの預かりもの

 松下幸之助氏の言葉に「自分の金、自分の仕事、自分の財産、自分のものといえば自分のものやけど、これもやっぱり世の中からの授かりもの、世の中からの預かりもの」とあります。「経営の神様」と言われた松下氏の言葉には仏教的要素が多く含まれています。「成功の秘訣は、天地自然の道理に従うこと」「自分の仕事は人の助け無くして、一日も進み得ないのである」「自分の方向を変えれば、新しい道はいくらでも開ける」「商売は感動を与えることである」。世の中からの預かりものということは、仏教の中心思想である「縁起」そのものです。「縁起」とは、「すべての存在は縁によって起こっている」ということであり、自分の持ち物でも、縁があって自分が預かっているのであり、縁が無くなれば去っていくのです。自分のものであって自分のものではないのです。これは自分のものだと執着するところに苦しみが生まれます。天地自然の道理に従うことに、経営の本質もあり、生きていく本質があるのです。

at 15:30, 不死川 浄, -

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自己を習う

 道元禅師に「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふというは、自己をわするるなり。」という有名な言葉があります。仏道を習うとは自己を習うことです。自己を習うとは、自己を知ることです。今まで気づかなかった自己に気づくことです。ソクラテスの「汝自身を知れ」ということです。人間はどこまでも自己中心に生きているから、他人のことは見えても自分のことは見えないものです。仏の教え、仏の光に照らされなければ自己の本当の姿は見えません。親鸞聖人は仏の光に照らされた自分自身を「罪悪深重、煩悩具足の凡夫」「生死の苦海に久しく沈んでいる私」「悪性さらにやめがたい私は地獄が私の住処です」「愛欲の広海に溺れ沈み、名利の大山に迷い惑っている」「縁次第で何を思い何をするかわからない私」と告白されています。私たちも同じ煩悩いっぱいの凡夫です。仏道を習い、自己を習い、自己を忘れることにより気づかされてくるのです。阿弥陀如来は、私たち凡夫が久しく生死の苦海に沈み、自力では救われないことを見抜かれているから念仏となり「我にまかせ」よび続けて下さっているのです。まだ自分を知らず、自分の力を頼って、自己にとらわれ自己を忘れていないから、仏の声が聞こえないのです。我が身に響かないのです。「マカセ」という真言に「ハイ」と言えないのです。しかし仏の光に照らされ、救われない我が身に気づくと、「マカセ」という真理の言葉が我が身に沁み込み「ハイ」と言わざるを得ないのです。「救われぬ身に沁みわたる弥陀の声」です。歓喜の叫びです。

at 20:42, 不死川 浄, -

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お盆のお話

 今年もお盆がやってきました。お盆の行事は『盂蘭盆経』が由来とされています。『盂蘭盆経』には、お釈迦様の十大弟子の一人である目連尊者が神通力で亡き母を探したところ、餓鬼道に堕ちて苦しんでいる母を見つけ救おうとするが自分の力では救うことができず、お釈迦様の言葉通りに安居の最後の日にあらゆる比丘に供養をすると、母にも供養の施物が届き救われたということが説かれています。この話で大切なことは、なぜ目連の母は餓鬼道に堕ちていったのかということです。結果があるということは必ず原因があります。その原因とは、我が子可愛さから罪を作っていったということです。子供が可愛いというより我が子なんです。どの親も同じでしょう。自分では気づかないうちに我が子可愛さから他の人を傷つけ多くの罪を作っています。もっと言えば我が身可愛さです。人間は自我中心に生きいろいろな罪を作っています。私たちは日日気づかないうちに、地獄行きの種をまいています。善いことをしてもそれにとらわれ、良い結果が返ってこなかったら相手を責め裁き愚痴をこぼしています。要はそれが見えるか見えないかです。仏法に遇えば日々地獄行きの種をまいている私が知らされます。親鸞聖人は「地獄は一定すみかぞかし」と述べられています。浅田正作さんの詩に「己の地獄の発見、そこから仏法は始まる。この地獄深くして底なし、ここから真の人生が始まる」「交差点にかかったら信号が黄色にかわった。ブレーキを踏みながらチクショウといった。あさましや畜生は仏法聴聞に行く車の中にいた」とありました。地獄行きの我が身が見えてくると、仏さまのお慈悲の言葉が身に沁みてきます。

at 18:20, 不死川 浄, -

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私として生きる

 私たちは不思議なご縁でこの世に生まれてきました。自分の意志で生まれたのではありません。気づいたら生まれていたのです。何故この時代に、この地に、男として女として、この私として生まれてきたのか?いくら考えてもわかりません。不思議とは、思議できないということです。それぞれご縁として受け入れ、与えられたものを引き受けて生きるしかないのです。持って生まれたものは人それぞれ違います。兄弟でも違います。才能、性格、顔形、身体能力・・・。比べなくていいのです。比べると自分を見失います。愚痴が出ます。何故この「私」として生まれてきたのかはわからないが、私が私として生きるしかないのです。生まれた目的は何か、何をしにこの世に生まれたのか、それは人それぞれ違いますが、賜った命です。二度とない人生です。誰も変わってくれません。たとえ短い人生でも、この世に生まれて良かった、「私が私で良かった」といえる人生を送りたいです。

at 17:13, 不死川 浄, -

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念仏の救い

 念仏の救いとは、私が念仏を称えて救われるのではありません。いくら真心を込めて一生懸命に数多く称えても救われません。私が称えるのではなく、阿弥陀如来が念仏となり私たちの口から念仏を称えさせて救って下さるのです。念仏は私が称えるのではなく、阿弥陀さまが称えさせてくださるのです。念仏を称えるとは阿弥陀さまが私の口から出て下さるのです。だから救われるのです。念仏を称える主体は私ではなく阿弥陀さまなのです。念仏は、阿弥陀さまの説法であり、よび声であり、名のりであり、叫びです。どこまでも自己中心に生き、縁次第で喜んだり、悲しんだり、思い上がったり、落ち込んだりする私たちを決して見捨てず、どんな状況になっても私たちを必ず救うと念仏となり、私たちの口から称えさせてくださるのです。私自身、腹が立ったとき、悔しいとき、辛いとき、思い通りにならないときこそ、念仏が口から出て下さり、自分を取り戻させてくださっています。いくら仏法を喜んでいても、縁一つでその思いは消え、何を思い何をするかわかりません。これが現実の私です。その私の本性を見抜いていられるから、阿弥陀さまは念仏とならざるを得なかったのです。念仏を称えて願いが叶ったり、現実が変わるのではありません。そのままの私が安心できるのです。喜べるのです。生きる力となるのです。

at 01:44, 不死川 浄, -

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