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出版しました

 この度今まで書いたブログをまとめた本『この世に生まれてー人生はご縁ですー』を出版しました。2006年から毎月5回をペースに書き続けてきました。2011年に「さあ弥陀の船に乗ろう」という題名の本を出版しましたが、あれからだいぶたち、今まで書いたブログをまとめてみたいという思いで出版することにしました。第一章は「この世に生まれて」、第二章は「人生はご縁です」、第三章は「念仏に遇う」、第四章は「いのちの帰する処」と四つの章に分けてにまとめてみました。その時書いたブログをそのまま載せたり、書き直したり、付け加えたりしています。私たちは本当に不思議なご縁でこの世に生まれ、多くのご縁に生かされ、ご縁によって死んでいくのです。人それぞれのドラマがあり、出会いがあり、人生があります。若くして亡くなる人、天寿を全うされる人さまざまですが、少しでもこの世に生まれて良かったと言える、生きるヒント、生きる意味を見つける糧になればと願い書かせていただきました。近いうちに全国の大手の本屋さんに並び、アマゾンでも注文できます。ぜひ読んでいただきたいと願っています。合掌

at 20:23, 不死川 浄, -

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私の正体を知る

 仏法を聞くとは、仏さまの願いを聞くと同時に、私の正体を明らかにすることです。私たちは自分の眼で自分の眼や自分の背中が見えないように、自分の正体はわからないものです。蓮如上人が「人のわろき事はよくよく見ゆるなり、我が身のわろきことはおぼつかざるものなり」と述べられているように、自分のことはわかっているようでわかっていないのです。仏法を聞くことによって少しづつ少しづつ知らせていただくのです。私の正体を知らねば、仏の声は届いてこないのです。我が身はどこまでも煩悩具足の凡夫であり、いつも真理に反逆し背いて生きています。しかしなかなかそのことに気づけないのです。いつも自我中心に生き、生かされて生きていることに気づかず、見えるものだけにとらわれ、見えない無量のいのちに支えられていることに気づかない。自分を認めてもらいたい、ほめてもらいたい、少しでも思い通りにしたい、私の願いをかなえたいと外にばかりに目がむいているので、自分の内面が見えないのです。仏さまは、いつも自我中心に生き、煩悩いっぱいに生き、真理に反逆し背いて生き、決して自力では救われない私たちだからこそ「そのまま救う」とはたらき続けてくださっているのです。

at 16:34, 不死川 浄, -

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天上界とは

 人間の価値観は、上に行けば上に行くほど偉い、賢い、価値があると思われています。人間社会はどんな社会でもおなじです。そのトップとは天上界です。よく「天下を取る」「頂上、てっぺんを目指す」という言葉も聞きます。また天下人豊臣秀吉、天下の横綱、天下のチャンピオン、天下の東大とも言われます。会社でも学問やスポーツの世界でも上に行けば行くほど偉い人と思われています。しかし仏教の世界では、天上界は六道輪廻の迷い苦しみの世界です。天上界は六道輪廻や人間の価値観ではトップで喜びや楽しみの多い世界ですが、必ず老いや死が来ます。縁次第で、いつ下に落ちるかもしれません。その地位にしがみつくことも苦しいです。仏教は迷い苦しみの六道輪廻を超えるところに救いがあると教えています。念仏に遇うということは、迷いの六道輪廻を超えることです。阿弥陀如来の救いは、上下、優劣なしです。人を選びません、分け隔てしません、差別なしです。そのままで私たち一人一人を救おうとはたらいてくださっています。助かりたいとか、上に行きたいとか、もっと自分が認められたいとか、そういうハカライを捨て、おまかせすることです。「決して見捨てない、必ず救う」という阿弥陀如来の大きな願いにまかせするだけです。仏の大地に樹(た)って浄土への道を力強く生きることです。

at 02:57, 不死川 浄, -

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命が先、私が後。

 私たちは不思議なご縁でこの世に命を賜りました。自分の意志で生まれたのではありません。気づいたら生まれていたのです。自分で創った命ではありません。無量の寿(いのち)に生かされている命です。「生まれ子が次第次第に知恵つきて仏に遠くなることぞ悲しき」(一休)と言われるように、自我(私)が芽生えてくると、いのちを私有化し、自分の命ではないのに「我が命」と思うようになり、知恵がつき仏に遠ざかっていきます。そこから我が身が一番可愛くなり、見るもの聞くもの、自分中心に見聞きするようになり、真理に背いて生きるようになるのです。「命が先で、私が後」であり、「ご縁によって私が生かされている」のに、「私がご縁によって生かされている」と思うようになります。何事もまず我ありきです。また「私が苦しい、悲しい、腹が立つ」と思うようになり「「苦しい、悲しい、腹が立つご縁によって、私が苦しむ、悲しむ、腹が立つ」という事実を見失い、迷いを深めているのです。なぜ私が苦しんでいるのか、なぜ私が腹が立っているのかといういのちの事実を見ることができるようになると、苦しみの出口が見えてきます。苦しみは自我が思い通りにならないところから起こります。自我が破れ、自我を超えるところに救いは見えてくるのです。

at 15:39, 不死川 浄, -

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考えないこと

 私は苦しい時、辛い時、悲しい時、辛い時は考えないようにしています。その時の考えは、不安や将来の心配、かってな妄想、自分中心の言い訳、愚痴などのマイナス思考ばかりです。そういう時はあまり考えないほうがいいです。冷静な判断、考えは出来ません。しかし「考えるな」と言っても、すぐにいろいろな妄想が、思いが浮かんできます。その時は「ハカライを捨て、まかせよ」と言います。その言葉はすなわち念仏です。口から念仏が阿弥陀仏が出てくださるのです。不思議と念仏を称えるとなぜか落ち着きます。人は「現実に苦しむのではなく、思い(ハカライ)に苦しむのです。たとえば大きな地震を受け「何故こんな目に遭うのか」と悲嘆し、将来の不安を嘆く人もいれば、地震という現実を受け止め、苦しいがみんなと力を合わせて苦しみを乗り越えようとしている人もいます。人は勝手なハカライで思いで迷い、苦しみを深めていきます。その私たちに阿弥陀仏は念仏となつて、私たちの口から出て下さり、「どんな時も一緒です、支えます」とよび続けてくださっています。念仏を称えるとは、どこまでも私たちに生きる存在基盤となってくださるのです。念仏とともに力強く生きていきましょう。

at 15:34, 不死川 浄, -

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何故こんな目に遭うのか

 能登の震災の後、何度かニュースで「何故こんな目に遭わなければならないのか」という声を聞く。 辛いけど苦しいけど悲しいけど、起こったことは受け止めなければならないのです。人生は苦です。何が起こるかわかりません。一寸先は闇です。この三十年大きな地震が続けて起こっています。いつまた南海トラフが起こるかわかりません。また重い病を持って生まれてきた人もいます。幼いときに両親が事故で亡くなった人もいます。苦しみを受け止め強く生きている人もいます。仏教は災難が来ないようにと祈る宗教ではありません。祈ったからと言って現実はどうなるかわかりません。私たちも、いつ、何処で、どんな災難に遭うかわかりません。それ故にお互い助け合わねばならないのです。悲しみに寄り添い、共感し、絆を深めていかねばなりません。仏さまに、地震が来ないようにとする力はありません。仏さまとはそんな存在ではありません。人々の苦しみ悲しみに寄り添い、苦しみ悲しみを乗り越え、強く生きて欲しいと願って、いつもはたき続けてくださっています。

at 17:02, 不死川 浄, -

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上に行けば偉いのか

 人間の価値観では、誰にでも出来ないことをするから偉い、尊い、価値があると思われています。また上に行けば上に行くほど偉いと思われています。人間社会はどんな社会でもそうです。一番上は天であり、天下を目指している人も多いです。豊臣秀吉は天下人と言われていました。天下の横綱、チャンピオン、天下の東大ともいわれています。しかし果たして上に行けば本当に幸せなのでしょうか。確かに世間的な評価は受けるでしょうが、秀吉は「露と落ち、露と消えにし我が身かな、浪速のことは夢のまた夢」と寂しく命終えていきました。上に行ける人はほんのわずかです。「上みりゃ上で、下みりゃ下でキリがない」と多くの人はこの辺でいいと妥協して生きています。人間の価値観は、人に褒めてもらいたい、認めてもらいたい、少しでも上に行きたいという願望が身に沁み込んでいるし、上にいても縁次第で下に落ちるかもしれないのが現実であり、人と争ったり、比べたり、地位にしがみついたりで本当の安心を得るのはとても難しいです。しかし阿弥陀仏の価値観は、人間の価値観と全く違います。上下なし、優劣なし、比べない、分け隔てしない、差別しない見方であり、人それぞれ、そのままでいのち輝き、安心できることを伝えてくださっているのです。それには誰でも称えることが出来る念仏となり、生きる存在基盤となってくださっているのです。どんな状況になっても生きる土台、支えになってくださるのです。「私が私のままで良かった」と心からいえる私に育ててくださるのです。「誰にも出来ないから尊い」ではなく「誰にでも出来るから尊い」という事実を知って欲しいです。

at 01:57, 不死川 浄, -

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誰でも出来るから尊い

 念仏とは、ただ阿弥陀仏の名を称えるだけです。誰でも出来る簡単な行です。何故親鸞聖人や多くの方々が生涯をかけて、簡単な行である念仏を伝えることに命をかけられたのでしょうか。人間の価値観では、誰でも出来ないことをするから尊い、価値があると思われています。またどんな社会でも上に行けば上に行くほど偉い人と思われています。政治でも、会社でも、学問でも、スポーツでも、芸術でも、自力の仏教でもそうです。しかし阿弥陀仏の価値観は全く違います。「誰でも出来るから尊い」と教えています。阿弥陀仏の救いは、人を選ばない、分け隔てしない、差別しない、上下なし、優劣なしです。平等に救うということです。そのままでいいんです。それには誰でも出来る行でなければなりません。その為に阿弥陀仏は、誰でも称えることが出来る念仏になって「我が名をよんでくれ」とよび続けてくださっているのです。もし厳しい条件が付けられれば、果たしてどれほどの人が救われるでしょうか。私たち煩悩いっぱいの凡夫は救われません。「誰でも出来ないことをするから尊い」のではなく、「誰でも出来るから尊い」ということに気づいて欲しいです。誰でも出来る念仏に遇うということは、そのままで価値あるものにしてくださるのです。そのままで救われるのです。

at 01:33, 不死川 浄, -

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生きる意味を問う

 生きていれば地震や事故や病気などで、どうにもならないことが起こります。それをどう受け止めて、どう乗り越えていくかを教えているのが念仏です。仏教は本来、そういう災難や事故や悪いことが起こらないように祈ったり、願ったりする教えではありません。それは仏教や念仏ではありません。どうにもならないことが起こったとき、その苦しみは何を私に問うているのか、何を教えているのかを厳しく見つめていくのです。こんな災難来ないでくれと祈るのではなく、与えられた事実を受け止め、それを乗り越えていくことを教えているのです。例えば大地震を被災された方が、この震災をどう受け止めていくのか、どう乗り越えていくのかを見つめ、強く生き、苦しみを乗り越えていく道を伝えているのが念仏です。人生一寸先は何が起こるかわかりません。どうにもならないことが起こります。いつ、何処で死ぬかわかりません。阿弥陀如来は、大悲の心で、苦悩している人々を必ず救うという本願を起こされ、苦悩している人々を救うには念仏しかないと見抜かれ、誰でも簡単に称えられる念仏となり、念仏の中にあらゆる功徳を込め、「ハカライを捨て、我にまかせ」「いつも一緒です」と人々の口から出るように仕上げてくださっています。念仏を称えるとは、我々の願いが叶う、災難が無くなるというのではなく、私たちの生きる土台、生きる支えとなって、いつも一緒に生き、はたらいてくださっているのです。阿弥陀如来という仏さまは、どんな状況になっても「決して見捨てない。必ず救う」「強く生きてください」と涙を流されながら念仏となりよび続けてくださっているのです。念仏は涙の結晶です。私たちの生きる存在基盤です。

at 03:01, 不死川 浄, -

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おまかせ

 ある方が癌の宣告を受けた時ショツクだったけど、すぐに「阿弥陀さんにおまかせだな」と思えた。今になって思うと阿弥陀さんの話を聞いていて本当によかった。聞いてなかったら、こんなに落ち着いていられなかったと思う.後どれだけ生きられるかわからないけど、いただいた命、感謝して最後まで生かさせてもらおうと思っている」と話されていました。念仏とは、「ハカライを捨て、我にまかせよ」という阿弥陀仏のよび声です。念仏に生きるとは、自分勝手な思いを離れ、阿弥陀仏にまかせ、真理に従って生きることです。真理に逆らって生きようとするから苦しむのです。まかせたら安心です。「老い」を苦しんでいる人も多いです。生まれたら必ず死ぬ、この世は無常で常に移り変わっているという真理に逆らい、自分の都合でハカライ、思いどおりにならないから苦しむのです。老いを受け止め、おまかせして生きたら安心です。私たちのほうから真理に近づくことは出来ません。真理(真如)のほうから来て、如来となり、如来が念仏となって、「真理に従って生きよ」「我にまかせよ」とよび続けてくださっているのです。念仏を称え、阿弥陀さんにまかせて生きるということはとても安心です。大きな生きる力になります。念仏を称え、おまかせしましょう。

at 16:18, 不死川 浄, -

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