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ご縁をいただく

 私たちはすべてご縁によって成り立ち、それぞれご縁の中で生きるしかないのに、そのご縁をいただくことができなくて迷っているのです。私たちの命も縁次第でどうなるかわかりません。いつ、どこで、どんな死に方をするかわかりません。私たちの心も縁一つで喜んだり、悲しんだり、苦しんだりしています。その喜びも、私という存在がいて喜ぶのではないのです。喜ぶご縁に出会ったから喜ぶのです。腹を立てるのも私が腹を立てるのではなく、腹を立てるご縁に出会ったから腹が立ったのです。自分では腹を立てようと思っても腹は立てられません。悲しみも苦しみも同じです。ご縁により喜んだり、悲しんだり、苦しんでいるのです。そのご縁をいただいて生きるしかないのに、そのご縁をいただけないから、良い縁が欲しくて、悪い縁は欲しくないと願うのです。これが現世利益信仰の原点です。人間は本当に身勝手なもので、いのちの事実を知らないから良い縁が欲しくて、悪い縁は欲しくないと仏や神に祈願しているのです。しかし人それぞれ今まで良い縁や悪い縁をいただいて今の自分がいるんです。もちろん悪いご縁には出遇いたくないが、いただいたご縁を受けとめていくしかないのです。苦しいご縁に会えば苦しんでいいのです。そのご縁をいただくことにより、学び、気づき、成長していくのです。仏法に出遇えば、「無量寿」すなわち如来さまからいただいたいのちです。この苦しみも如来さまからいただいたものです。如来さまがいま私の身体の中で苦しんでくださっていると気づくんです。それに気づくからモッタイナイといって苦しいご縁をいただけるのです。ある念仏者の言葉です。「長く生かさせてもらったから、ボケまでいただきました」「こんな苦しい思いをするのも、仏さまから命をいただいたおかげです。ナンマンダブ、ナンマンダブ」「足が痛くなるまで命をもらっておきながらすぐに愚痴が出る、恥ずかしいことです、モッタイナイことです」 それぞれご縁をいただいて生きていきましょう。

at 18:27, 不死川 浄, -

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あなたの宝物は

 島根県の歌人上代絲子さんは、幼い時おじいさんの膝に抱かれて口癖のように、おじいさんから「どんな宝も持って歩くことはできないが、お念仏だけはどこにでも持っていくことができる。お念仏を忘れるなよ。お念仏は一生の宝だぞ」「お念仏を称えるときは一人ではないぞ。いつも一緒に如来さまがいらっしやるのだぞ」という言葉を聞かされたそうです。その言葉を聞いて育った彼女は、「祖父を継ぐ南無阿弥陀仏その外は我に宝の何ひとつなし」と歌われています。彼女の人生は数々の苦難が襲う逆境の中で、お念仏を大きな生きる力として生き抜かれたのです。お念仏の宝は、いつでもどこでもどんな時でも持っていくことができます。苦しみの中お念仏を称えると、苦しみの中にありながら安けき心がにじんできます。ある人は「念仏だけが死ぬときに持って行けるたった一つの宝物です」と述べられていました。以前阪神大震災で新築の家が倒れ借金だけが残った人が、「これからは家が倒れても、焼かれても、流されても大丈夫と言えるものを支えとして生きていきたいです」と話されていました。どんな状況になっても無くならない宝物を持ちましょう。

at 16:45, 不死川 浄, -

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あけまして南無阿弥陀仏

  光寿無量

 人間は自分の不自由さに仕えて成熟していくんです。その不自由さを何とかしようとするんじゃなくて、

その不自由さを面白がっていく、それが大事だと思うんです。歳をとるということは本当に面白いものです。(樹木希林)

                        本年もよろしくお願いします。

 

                           2019年 元旦        不死川 浄

at 18:22, 不死川 浄, -

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仏のみ名を聞く

 阿弥陀如来は、苦悩の有情を必ず救うと願われ、苦しんでいる人々を一人残らず救うにはこれしかないと、南無阿弥陀仏という名前の仏さま、声の仏さまになられたのです。南無阿弥陀仏とは、阿弥陀仏に南無せよ「我にまかせよ」という仏さまのよび声です。そのよび声を聞くのです。そのよび声が聞こえたら、我が身に届いたら、私たちの方から阿弥陀仏に南無します「あなたにおまかせします」と応えていくのです。阿弥陀さまは南無阿弥陀仏というみ名の中にすべてに功徳を込めて、「必ず救い仏にする」「いつも一緒だよ。決して見捨てない」とよび続けてくださっているのです。私たちが苦しい時、辛い時、悲しい時、不安な時、間違いをおこしそうな時ほど、私たちの口から「大丈夫だよ」出てくださり、「安けき心」をにじませてくださるのです。仏のみ名を聞き、よび声に応えていきましょう。「とにかくもあなたまかせの年の暮れ」です。「ただ念仏のみぞまこと」です。

at 01:35, 不死川 浄, -

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あなたまかせの年の暮

 年の暮れが近づくと、良寛さんの「ともかくも、あなたまかせの年の暮」という言葉が思い出されます。この言葉は「後生の一大事は、その身を如来の前に投げ出して地獄なりとも極楽なりともあなたさまのおはからい次第です」と書かれた後の言葉です。生死の問題は人間のはからいではどうにもなりません。阿弥陀さまにまかすしかないのです。まかせると安心です。どうなろうと心配ありません。「これから先の人生は幸か不幸かしらねども、どちらになってもよろしいと確かな覚悟ができました」という心境です。「南無阿弥陀仏」は「我にまかせよ」という阿弥陀さまのよび声です。歳をとろうがとるまいが、病気になろうがなるまいが、いつ命が亡くなろうとも後生の心配をせずに、この身を阿弥陀さまにまかせて、お念仏の日暮しをさせていただくばかりです。

at 17:56, 不死川 浄, -

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みんないただきもの

 鈴木章子さんの『癌告知のあとで』という本の中で、「死にむかって 進んでいるのではない 今をもらって生きているのだ 今ゼロであって当然の私が 今生きている」とありました。私たちは死に向かって生きているのではありません。生と死は表裏一体で、生きつつあるということは死につつあるということです。いつ死んでもおかしくない私たちは、多くのご縁をいただいて、今をもらって生きているのです。生きていればいろいろなご縁に会います。良い縁、悪い縁、苦しい縁、悲しい縁、辛い縁、楽しい縁、腹が立つ縁さまざまです。みんないただきものなのです。心の動きも、行動も、生きるも死ぬも、縁次第でどうなるかわかりません。「さるべき業縁が催せば如何なる振る舞いもすべし」です。地震や不慮の事故でいつ死ぬかわかりません。それぞれご縁の中で生きるしかないのです。そのご縁をいただきものと受け止めるのです。引き受けるのです。今日は腹が立つご縁をいただいた、悲しいご縁をいただいた、苦しいご縁をいただいたと受け止めるとめるのです。仏さまから命をいただき、今生きているからそのご縁に会ったのです。受け止めると悲しみのご縁が喜びのご縁となります。逆縁を活かすことができるのです。                                                     

at 20:54, 不死川 浄, -

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もし浄土がなかったら

 もし浄土がなかったら、私たちの命はどこに行くのだろか? 行方不明になってしまう。流転輪廻を繰り返してしまう。だから世間では、良い所に行ってほしいと冥福を祈るのです。もし浄土がなかったら、人生の最後は真っ暗闇です。人生のゴールが明るいか、暗いかによって人生は大きく変わっていきます。現代人は死んだらしまいと思っている人が多いですが、死んだらしまいというのは虚しく寂しく死んでいくだけです。必ず死んでいく身です。安心して死んでいきたいです。それ故に阿弥陀さまが、いのちの故郷である浄土を教えてくださっているのです。もともと私という存在はありません。多くのご縁をいただいて私という存在があるのです。無量の寿(いのち)によって生かされているのです。この世のご縁が尽きれば、私を私たらしめてくださった無量寿の世界(浄土)へ帰らせてもらうのです。しかし人間は自我中心に生き、いのちの事実を見失っているので、阿弥陀さまが念仏となり、いつもよび続けてくださっているのです。浄土へ帰って安心するのではなく、帰る処が明確となったとき安心するのです。安心していのちの故郷である浄土へ帰って行きましょう。

at 15:02, 不死川 浄, -

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いつも一緒

 阿弥陀さまは私の中に同居してくださっているのでいつも一緒です。いつも私を支え導いてくださっています。私の煩悩が起こった時、阿弥陀さまは念仏となり私の口からナンマンダブツと出てくださり、私の煩悩を気づかせ、見つめさせ、コントロールしてくださいます。悲しい時や寂しい時「いつも一緒だよ」と念仏となってよびかけ安心を与えてくださいます。これから先の人生、どっちに転んでもいつも一緒です。阿弥陀さまが同居してくださっていることは、無量寿のいのち、永遠のいのちをいただいていることですからもう死ぬことはないのです。もちろん肉体は滅びますが、我がいのちは無量寿なりです。信心とは、阿弥陀さまが私の中に至り届き同居してくださることであり、それは無量寿のいのち、死なないいのちをいただくことです。有限な命を生きる私たちは、信心により阿弥陀仏なる無限のいのちを生きるのです。

at 17:39, 不死川 浄, -

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報恩講コンサート

 今年も篝火をたき、大変豪華で素晴らしいコンサートができました。今年で23回目です。よく続いているなと思います。出来る限り続けたいと願っています。今年は1部が演歌、2部がペルー音楽、3部がジャズでした。必ず3部構成にして、どんな人が聞いても楽しめるように、さまざまな音楽を提供しています。それぞれとても良かったです。みんな違ってみんないいです。4時まで法要があるので、音響・照明さんが大変です。朝からスタンバイして、法要が終わると急いで7名のスタッフがセッティング、それから順番にリハーサルです。7時に喚鐘の音で始まり、演歌歌手の浅田あつこさんの真宗宗歌でオープニング。休憩なしで最後に全員で恩徳讃を歌い9時半ごろ終了でした。それから役員さんたちが後片付けしてくださいました。戸をはずし大きな音を響かせていますが、近所から一切苦情なしです。ありがたいことです。みなさんのおかげでコンサートが続いています。遠近各地より200名以上の方が来てくださり来年も必ず来ますと言ってくださいました。来年はどんな音楽を提供しようかといろいろ案を練っています。

at 15:22, 不死川 浄, -

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ご縁のままに

 ジャズピアニスト佐山雅弘さんが昨日亡くなられました。最後のメッセージに「君の身体は、君の食べたもので出来ている」ように「僕という者は、僕と出会った人々で出来ているとしみじみ実感したことです」と述べられ、その出会いにありがとうと感謝されていました。 私という存在はもともとないのです。多くのご縁が集まって私になっているのです。多くのご縁で今の私がいるのです。これから縁次第でどうなるかわかりません。喜ぶのも、腹が立つのも、悲しむのもご縁です。喜ぶご縁に出会ったから喜ぶのです。腹が立つご縁に出会ったから腹が立つのです。腹が立つご縁に出会わなければ腹は立ちません。喜びも、悲しみも、苦しみもすべて縁次第です。そのご縁により育てられるのです。多くのご縁によっていただいているこの命も縁が尽きれば、もとに帰るのです。私を私たらしめてくださっている大きないのちの世界、いのちの故郷に帰るのです。佐山さんも、多くのご縁に、出会いに感謝されていました。安心していのちの故郷の帰られたことでしょう。合掌

at 17:10, 不死川 浄, -

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