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2012.01.18 Wednesday
み教えと生活
仏教を聞いて大切なことは、み教えを我が身に受けとめて聞くことです。我が身に受けとめて聞かなかったら、何十年仏教を聞いてもみ教えが生きる力になりません。生活の中に生きてきません。ある研修会で「今日はいろいろ学ばせて頂きましたが、私たちの生活には関係ありません。坊さんの話は一応もっともだが、無くても生きていけます」という意見があったそうです。ただ学問や教養として頭でみ教えを聞いたら生活には全く関係ないものとなります。我が身を通して自分のことやったと聞いてくると、生活に無くてならないものとなります。生きる支えになります。私自身、み教えに遇えば遇うほど、私の愚かさ・罪深さ・恥ずかしさが知らされます。み教えに照らされ見出されてくるのです。聴聞とは我が身が如来の光に照らされ知らされ、育てられてくるのです。
2012.01.12 Thursday
念仏の利益
念仏の利益は、自分を見失わせないことです。自分を見失っていても、念仏申すことにより自分を取り戻すことができるのです。縁に触れ思いあがったりうぬぼれあがっていても「思いあがっているよ・うぬぼれあがっているよ」と、念仏が気づかせてくれます。自分を飾って見せようと思っていても、その場にいることが恥ずかしいと思っている時も、「そのままでいいんだよ」と自信を取り戻してくれます。淋しい時・悲しい時・苦しい時・辛い時、念仏申したからといって現実はどうにもなりませんが、何かほっとします。安らぎが与えられます。現実を引き受けて生きようと生きる力が与えられます。
2012.01.06 Friday
光に遇う
如来の本願はすべての人を救うと働いています。如来の大悲はすべての人を照らしています。如来の本願はすべての人を救うと働いていますが、、如来の大悲に、如来の光に照らされ見出された人にのみ信じられるのです。光に照らされ、自身のどうしようもない煩悩に気づいた人だけが受け入れることができるのです。それ故、自分自身が浅ましい煩悩具足の凡夫と気づかない人には決して受け入れることができないのです。『歎異抄』第3条にあるように、自力作善の人は決して他力をたのむ心はないのです。現代人の多くは自己を振り返る眼を失っています。仏の光に遇っていません。しかし聴聞を通して、仏の光に照らされ見出され、自身の底知れない煩悩が見えた時、私のために如来の本願が働いていることに気づかせていただくのです。
2012.01.02 Monday
除夜の鐘
明教寺では昨年の11時45分から除夜の鐘をつきはじめました。いつもなら11時半頃にはたくさん並んでいるのですが、今年は少ないなと思っていたら、12時過ぎてからたくさん鐘をつきにみえました。一般に108の煩悩を打ち消して新しい年を迎えようということですが、煩悩はなくならないので、煩悩を見つめさせていただきましょうということで、参拝者全員に鐘をついていただいています。数は数えていないですが、きっと300以上はついたと思います。煩悩は無くそうと頑張っても無くなりません。縁次第ですぐに出てきます。煩悩は見えたらいいのです。私が煩悩いっぱいの凡夫であることを自覚するのです。そうすると恥ずかさ・愚さ。罪深さが知らされ、煩悩に振り回されなくなるのです。
2011.12.31 Saturday
今年を振り返る
今年ももうすぐ終わります。今年はなんといっても3月11日の東日本大震災です。あっという間に2万人の方が津波にのまれ、多くの方が被災されました。一生忘れられない出来事でした。この震災を通して縁起に生きなければいけないことを教えられました。縁起に生きるとは助け合い、支え合って生きるということです。人の苦しみ悲しみが我が苦しみ悲しみとなって生きるということです。日々すっかり忘れていますが、お互い生かされているいのち、支え合っていかなければいけないのです。一人ひとり自分の出来ることをさせて頂きましょう。4月は50年に一回の親鸞聖人750回大遠忌に参拝しました。5月は関東のご旧跡を参拝し、善鸞さんの苦労を偲ばせて頂きました。8月はトルコに行き、80代の方々と一緒に気球に乗りました。素晴らしい体験でした。10月は「さあ弥陀の船に乗ろう」を出版しました。現代人に贈る百の法話です。いままでブログに書いたことや書きためていたことをまとめてみました。一人でも多くの方に読んでいただき、ご意見をいただきたいです。11月の報恩講コンサートは今年もとても盛会でした。年々参拝者も増えています。また歳をとるごとに、いままで見えなかったこと気づかなかったことを気づかせていただいています。人生何が起こるかわかりません。与えられたことを受けとめて生きるしかありません。何が起こっても大丈夫というものを身につけさせて頂きました。すなわちお念仏です。来年もお念仏を支えとして力一杯生きていこうと思っています。
2011.12.28 Wednesday
念仏の功
法然聖人の有名な言葉に「生けらば念仏の功つもり、死ならば浄土に参りなん」とあります。念仏に生きるとは、念仏の功徳が、念仏のすぐれた働きが我が身に積もり、ますます生活の中に現われてくるのです。仏さまのお育てです。念仏は生きる力を与えてくれます。自分が自分らしく生きていくことができます。淋しい時辛い時お念仏が口に出ると落ち着きます。安らぎを感じます。どんな状況になって現実は変わらなくても、辛い苦しい中、大きな支えになります。思いあがり自分を見失っている時、念仏が気づかせてくださいます。念仏に生きるとは、ますます念仏の功徳が我が身に積もってくるのです。そう思うと歳をとることも喜びです。いくつになっても育ちざかりの人生です。そして娑婆に縁尽きた時、光の国であるお浄土に参らせていただくのです。
2011.12.20 Tuesday
渋柿に想う
今年も境内の渋柿がたくさんなりました。干し柿にするととても甘くなるので、たくさんの方が赤くなるのを楽しみに待っていられます。境内に2本の大きなしぶ柿の木があり、干し柿にするとどちらもおいしいですが、とくに丸い大きな実のなる渋柿はとても甘くなります。欲しい方に差し上げると、20日ぐらいたって、甘くなった干し柿を持ってきてくださいます。それぞれ干し方や場所により色や形や味は違いますが、甘くて本当においしいです。「渋柿は裸にされて吊るされて、光におうて変わる味あい」という歌のように、光の働きはすごいです。寒い時、日当たりの良い処に行くと本当に身も心も温かくなります。光に照らされると、どんなモノでも輝きます。同じように仏の光に照らされると、私の姿が照らし出され、わが心の闇を破ってくださいます。渋柿が渋柿のまま甘くなるように、愚かで恥ずかしい私が、私のままいのち輝き味わい深い人に育てられてくるのです。 今年も干し柿をおいしくたくさんいただきましたが、食べ過ぎて便秘になった時は困りました。
2011.12.14 Wednesday
善悪の争い
人間も動物も欲望で争いますが、人間は他の動物と違って善悪でよく争っています。善悪の争いは、いつも自分が善で相手が悪です。国と国の戦争から、身近な家庭内の争いもすべて自分が善で相手が悪です。以前アメリカ大統領が「いまアメリカは執拗な悪に迫られている。アメリカ国民はみな立ちあがってこの悪に立ち向かわなければならない」という演説をしたそうです。アメリカが善で日本が悪なのです。私たちの善悪の判断(分別)はみな自分の狭い見方の判断でしかないのです。私たちもすぐに自分の見方で自分の物差しで、善い人悪い人と判断・分別しています。「あんな顔も見たくない嫌いな人がいるのではない。あんな顔も見たくない嫌いな人だと思っている私がいるだけだ」という言葉がありました。私たちは善悪の分別を無くすことができないから、善悪を超えた仏の教えを聞かねばならないのです。
2011.12.07 Wednesday
恥ずかしさを知る
よく歳をとれば恥ずかしさが無くなるという声を聞きますが、恥ずかしさを無くすと、どうしようもない、みっともない爺・婆になるだけです。たしかに歳をとれば、すこしは「良い格好したい」「いいように見てもらいたいという執着から離れていくと思いますが、恥ずかしさを無くしてはいけません。「エエカッコ―せんでもよかった、このままで良かった」という気づいていきたいです。 仏法を聞くとは、仏さまのお育てにより、ますます私の愚かさ・醜さ・恥ずかしさが知らされるのです。歳をとるにつれ恥ずかしいと知らされるのです。同時に、この私がこのままで良かったと喜べるのです。