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ご縁のままに

 ジャズピアニスト佐山雅弘さんが昨日亡くなられました。最後のメッセージに「君の身体は、君の食べたもので出来ている」ように「僕という者は、僕と出会った人々で出来ているとしみじみ実感したことです」と述べられ、その出会いにありがとうと感謝されていました。 私という存在はもともとないのです。多くのご縁が集まって私になっているのです。多くのご縁で今の私がいるのです。これから縁次第でどうなるかわかりません。喜ぶのも、腹が立つのも、悲しむのもご縁です。喜ぶご縁に出会ったから喜ぶのです。腹が立つご縁に出会ったから腹が立つのです。腹が立つご縁に出会わなければ腹は立ちません。喜びも、悲しみも、苦しみもすべて縁次第です。そのご縁により育てられるのです。多くのご縁によっていただいているこの命も縁が尽きれば、もとに帰るのです。私を私たらしめてくださっている大きないのちの世界、いのちの故郷に帰るのです。佐山さんも、多くのご縁に、出会いに感謝されていました。安心していのちの故郷の帰られたことでしょう。合掌

at 17:10, 不死川 浄, -

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私の悲しみを知る

 ベルギーのアドリアン・ペール博士は「仏法が届いている人と届いていない人の違いは、私の悲しみが見えているかどうかです」と話されていました。いくら仏法を長年学んでも、聞いても、私の悲しみが知らされなければ、まだ仏法が届いていないのです。仏法が届かなければ生きる喜び生きる力となりません。理性や道徳では私の悲しみは見えません。仏の光に照らされなければ我が身の悲しみや恥ずかしさは見えないのです。親鸞聖人の一貫した立場は、どこまでも煩悩具足の凡夫であると我が身を悲しまれていました。私の悲しみが知らされなければ、仏さまの悲しみが身に響いてこないのです。悲しみと悲しみの共感です。悲しみは悲しみを知る仏さまの悲しみに救われるのです。「大悲あるが故に生きるを得たり」です。私の悲しみを知ることは、目覚めです。救いです。「自分がかわいい、ただそれだけで生きてきた。それが深い悲しみとなったとき違った世界がひらけてきた」(浅田正作)

 

at 14:05, 不死川 浄, -

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煩悩とともに

 身を煩わし、心を悩ます煩悩は、浅ましいものです、恥ずかしいものです、悲しいものです。しかし私たちは煩悩が無くならないのです。どっぷり私たちに身についているから、煩悩具足の凡夫と言われています。縁次第で、怒りや愚痴や貪欲や思いあがりの煩悩が湧いてきます。不思議なことに私たちは煩悩一杯の凡夫であるにもかかわらず、なかなか自分の煩悩が見えないのです。他人の欠点はよく見えても、自分の欠点は見えないように、気づかないものです。それ故に仏さまが私たちの煩悩や悲しみを気づかせようとはたらいてくださっているのです。「仏法が届いている人と、届いていない人の違いは、私の悲しみが見えているかどうかである」「自分というものに光を当て気づかせてくださる、それ以外に宗教というものがあろうか」「煩悩具足の凡夫を救うことが仏さまの誓いです」。光なくして煩悩は見えないのです。そして煩悩があるから仏さまと出遇うことができるのです。煩悩は無くそうとしてはいけないのです。見えたらいいのです。無くそうとすればするほど苦しみ、もがくのです。煩悩とともに仏さまと歩むのです。もし煩悩が無くなれば、仏さまの用事は無くなるのです。仏さまと縁が切れるのです。仏さまはいつもこの煩悩にかかりあってくださっているから、仏さまに私の煩悩を見つめさせてもらって「はずかしい、おかげさま」と歩ませていただくのです。

at 01:54, 不死川 浄, -

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よび覚ます

 「念仏を称えるとは、阿弥陀如来が口から出てくださることです」 念仏とは阿弥陀如来のよび声です。凡夫の私たちを救うには、阿弥陀さま自身が声の仏となり、私たちの口から出て救うしかないと見抜かれたのです。凡夫の救いは無条件の救い、そのままの救いでなければ救われないのです。少しでも条件が付けば救われないことを見抜かれて、「南無阿弥陀仏」と声の仏になられたのです。私たちに「南無阿弥陀仏」と自らの名前を呼ばせて、私たちの心をよび覚ませ、安心を与えてくださるのです。凡夫の救いは「ただ念仏」しかないのです。私自身、不安なとき、慢心が起こったとき、我を張ったとき、人を比べ傷つけようとするとき、阿弥陀さまが私の口から出て、いつもよび覚ましてくださっています。「称名」すなわち阿弥陀さまの名を称えることは、いつもよび覚ましてくださる阿弥陀さまのよび声を聞くことです。

at 16:14, 不死川 浄, -

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私が称える前から

 苦しい時、困った時、辛い時、「助けてください」と念仏を称える人がいますが、阿弥陀さまは、苦しんでいる人をほっとけないから、「助けてください」と称えるより先に、その人の口から「助かってくれよ」「必ず助ける、まかせよ」とお出ましになっているのです。阿弥陀さまの方が先によび続けていられるのです。「私が申す念仏やけど 私でないがや 阿弥陀さまのおよび声や」(藤本はつ)「念仏とは私が仏をよぶ声ではなく 仏が私をよびたもう声」です。苦しい時私が仏に願うより前に、仏さまに願われているのです。私が称えていると思っていた念仏は、阿弥陀さまからのよび声なのです。「決して見捨てない」と阿弥陀さまが念仏となり私たちの口を通してよび続けていられるのです。苦しいければ苦しい時ほど、辛ければ辛い時ほど、阿弥陀さまはお出ましになってくださるのです。それが阿弥陀さまという仏さまなのです。念仏に生きるとは、自分の口から出る阿弥陀さまのよび声を聞いて生きていくのです。

at 01:33, 不死川 浄, -

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マカセヨ・ハイ

 親鸞聖人のご和讃に「生死の苦海ほとりなし 久しく沈めるわれらをば 弥陀弘誓の船のみぞ 乗せて必ず渡しける」とあります。生死の苦海に久しく沈んでいる私たちを救うために南無阿弥陀仏の船が私たちの処まで来て、「必ず救う、まかせよ」と叫び続けてくださっています。「ハイ」とまかせ弥陀の船に乗るしか私たち凡夫の救いはないのです。しかし現代では「ハイ」とまかせる人が少ないのは残念です。何故まかせないのか? 救いの船を疑い、ハカライ、拒否しているのか、まだ自分が生死の苦海に沈んでいることに気づかず、自力ではたすからないことに気づいていないのでしょう。阿弥陀さまは念仏となり、いつも私たちの固い心のドアーを開けようとノックし続けてくださっています。仏法を聞き、阿弥陀さまの智慧と慈悲のはたらきに遇えば、疑いが晴れ、心のドアーが開き阿弥陀さまが私の心の中に入ってきてくださるのです。それが弥陀の船に乗るということです。弥陀の船に乗れば、生死を超え、死ぬことが心配で無くなります。台風や大波がきても、阿弥陀さまとともに無碍の一道の人生を歩むのです。

at 15:03, 不死川 浄, -

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人間の世界・仏の世界

 人間の世界は自我の世界です。娑婆、世間、忍土といいます。上下・優劣・損得・善悪・美醜があり、健康が一番という価値観です。若くて元気で役に立つことがプラスであり、病や老いや死や役に立たないことをマイナスとみています。どんな社会でも上に行けばいくほど偉い人と思われています。仏の世界は無我の世界です。浄土、出世間、無量寿の世界と言います。上下・優劣・損得・善悪・美醜の比べることのない世界であり、分け隔て物差しのない一味平等の世界です。そのままでいい世界であり、私が私であってよかったといえる世界です。どんな汚い川もきれいな川もみな一味平等な川へ流れていきます。それが自然なことです。人間はいつも自然に逆らうから迷い苦しむのです。はからわず、逆らわず、分別せず、自然の流れにまかせて、老いること、歳を取ることを楽しんで生きていきましょう。それが仏の教えです。

at 19:13, 不死川 浄, -

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真実からのよび声

 「真実は人間の方から求めるのではなく、真実の方からはたらいて来ているのです」私たちは真実と名のつくものは何一つ持ち合わせていません。虚仮不実のわが身です。縁一つで何を思い、何をするかわかりません。どこまでも自我中心に生きています。その私たちにいつも真実の方からよび声となり、愚痴や悪口を言う同じ私の口から「ナンマンダブツ」と「心配ないよ、大丈夫、必ず助ける」とよんでくださっているのです。私たちはその声に素直に従い、あるがままに生きていけばいいのです。生きていればいろいろなことが起こります。辛い時、悲しい時、腹が立った時、寂しい時、どんな状況のときでも生きる道標、生きる支えとなり、安けき心を与えてくださるのです。自分を見失って生きているとき、自分を取り戻し生きる方向を示してくださるのです。その真実からのよび声に素直に従って生きることによって、私たちの人生は豊かで意味のあるものになるのです。

at 20:40, 不死川 浄, -

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受けとめ方を変える

 樹木希林さんの言葉に「受けとめ方を変えることで素晴らしいものに見えてくる」という言葉がありました。よくお年寄りの人から「歳は取りたくないです」「歳をとることは辛いです」という言葉を聞きます。樹木さんは、歳をとること、老いていくことを、受けとめ方を変えて面白がっていられました。歳を取るということは身体が不自由になってきます。「その不自由さをなくすのではなく、その不自由さを面白がっていくのです」と話されていました。仏法を聞くということは、自我中心の見方から、仏さまの温かい眼差しをいただくのです。それが仏法を聞くということです。仏さまの眼は、決して分け隔てされません、比べられません、物差しではかられません。その人をその人のまま認めてくださっています。仏さまの眼をいただくと、歳を取ること、老いること、死んでいくことが「苦」でなくなっていくのです。いのちが喜ぶのです。与えられたことを受け止め、面白く、楽しく生きていくのです。

at 18:17, 不死川 浄, -

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往生おめでとうございます

 先日、樹木希林さんが75年の生涯を閉じられました。病気になられてからも、老いてからも、与えられたことを受け止め、多くの人に心に響く言葉を残していかれました。「生きるも日常、死んでいくことも日常。死は特別なものとして捉えられているが、死ということは悪いことではない。そういうことを伝えていくのも一つの役目かもしれない」「年をとることは本当に面白いもの。年をとるというのは絶対面白い現象がいっぱいある。だから若い時にはできなかったことを、一つずつ面白がって欲しいの。受け止め方を変えることで素晴らしいものに見えてくる」「人間は自分の不自由さに仕えて成熟していくのです。その不自由さを何とかしようとするのではなく、不自由さをおもしろがっていく、それが大事なんじゃないかと思います」 彼女の生きざまは念仏者のようでありました。仏教系の高校を出て、築地本願寺で結婚式を挙げられています。仏縁があったことだと思いますが、彼女の素晴らしさは、見事に言葉通りに生き抜いたことです。多くの人が最後のコメントに「冥福を祈ります」と書いていましたが、彼女には冥福を祈る必要はありません。念仏者に送る言葉である「ご往生おめでとうございます」という言葉がもっともふさわしいような気がします。合掌

at 16:28, 不死川 浄, -

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