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自然と人間

 『阿弥陀経』に「共命鳥」(ぐみょうちょう)という鳥が出てきます。胴体は一つで、頭が二つあり、命を共にする鳥です。頭が二つあるので考えにも相違があり、いつも争っていました。ある時我慢の限界に達した左の頭の方が、右の頭がいなかったらどんなに自由に楽しく暮らせるだろうと思い、右の頭に毒を飲ませることにしました。すると食べたほうの右の頭は苦しみ死んでしまいました。左の頭は、これで自分の思い通りに生きていけると喜んでいたら、胴体は一つですから、毒がだんだんと全身に回り死んでしまうのです。この話はいろいろなことを教えています。すべてのいのちは単独で存在するものでなく、互いに関わりあって存在しているのです。自然と人間の関係も同じです。地球という一つの世界にいながら、人間が快適な生活を求めて、自然を破壊してきました。人間の都合で自然を変えていきました。いまその結果がそのまま出てきました。新型コロナウイルスも、プラスチックごみによる海洋生態系の損失も、温暖化による海面上昇、豪雨、熱中症など、自然を破壊した付けが回ってきています。他を滅ぼすことは自分自身を滅ぼすことになるのです。他を生かすことが自分自身をも生かすことになることを、極楽の鳥である「共命鳥」は教えているのです。

at 01:45, 不死川 浄, -

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いのちの満足

 宗教とは、「人間の力を超えた仏や神にすがって心の安らぎを得る教えである」と思っている人が多いですが、仏教は違います。仏教は外に救いを求める教えではありません。お釈迦さまは外に救いを求める道は「外道」であると否定されました。仏とは覚者(めざめた人)といわれるように、外に救いの道を求めるのではなく、自分の内に気づき・めざめを促す教えです。人間は誰しも、自我の根底にいのちの要求を抱いています。本当に生きたい、真実に生きたい、確かなものに遇いたいと、いのちの満足・いのちの充実を求めているのです。私たちはよく日常生活の中で、空しい・退屈だ・不安であるという気持ちが起こりますが、それはすべての人の中に真実なるものを求める心がうずいているのです。真実に生きたいと、いのち自身が要求しているのです。仏法に遇う、念仏に遇うということは、何か新しいものが外から付け加わって、私が大きく変えられるということではなくて、今まで空しく過ごして気づかずにいた私自身のいのちの要求にいま初めて気づかされた、私を促し続けていたいのちの願いにいま初めて遇うことが出来たということです。そして出遇ってみれば、もうそれを離れて生きれないし、出遇ってみればそれはつねに私を促し導き育て続け、私を真実の道へ歩ませてくださるのです。

at 15:40, 不死川 浄, -

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自我を超える

 仏教は、我を離れて生きていこうという教えです。我があれば真実に出遇えないからです。しかし私たちはつねに自我中心に生き、自我の満足を求めて生きています。自我とは思い通りにしたい心であり、思い通りにならないことを苦しみといいます。本来はいのちの事実は無我であるが、人間は我によっていのちを私有化し、実体化し、執着し、自他の対立をし、いろいろな苦しみを生じています。我こそが諸悪の根源と言っていいでしょう。仏教では厳しい修行をし、煩悩を断ち、我を超えて真理に覚めていこうという教えもありますが、私のような我の強い煩悩いっぱいの人間にはとうてい無理な教えです。死ぬまで我は無くなりません。そういう私たちのために、真理(如)の方から来て、そのままの私をそのまま抱きとって、いつも支えてくださる方があるんです。その方を阿弥陀如来といいます。いつも南無阿弥陀仏となり、阿弥陀仏(われ)に南無せよ(まかせよ)と喚(よ)び続けていられます。この人生思い通りになりません。思い通りにならないから、思い通りにならない時こそ、私たちの口からナンマンダブツと称えさせ、お出ましになってくださっているのです。いつ自我中心に生きている私が私であることが許されて生かされているのは阿弥陀さまのおかげなのです。自我とともに真実への道を歩まさせてくださるのです。

at 19:28, 不死川 浄, -

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真理との出遇い

 真理との出遇いは、人間の方から求めて得るものではなく、真理の方からのハタラキにより出遇うのです。日本画家、東山魁夷氏が「私が花を美しいと捉えようとしている間は、まだ花の美に出会っていない。偉大な芸術家たちは、みなものの美に捉えられた人たちです。自分の我があったら本当に美しい絵は生まれないのです」と述べられているように、人間のハカライ、理性や分別でとらえるのではなく、そのものの美に捉えられるのです。そこには自分の我はないのです。同じように仏さまとの出遇いは、私が仏さまを捉えるのではなく、仏さまに私が捉えられるのです。『歎異抄』に「念仏には無義をもって義とす」とあるように、人間の義(ハカライ)の無いところに、念仏の本当の義・真理があるということです。念仏は人間のハカライ、理性や分別でわかろうとするからわからないのです。出遇えないのです。どれだけくわしく念仏を説明され納得できたとしても、決して信や喜びは湧いてきません。信心はいただけません。広大無辺なお慈悲に出遇い、我が破れたところに如来さまが念仏となり私の口から出て下さるのです。私の口から念仏が出るのですが、念仏を称える主体はどこまでも如来さまです。「自分の我があったら本当に美しい絵は生まれない」ように、自分の我があったらまだ本当の念仏ではないのです。「聞いて助かるんじゃない、助けてあるをいただくばかり」「助けてあることの南無阿弥陀仏」といわれてるように、どうすれば助かるのかと聞いて助かるのではありません。ただ「必ず救う」という如来さまの仰せにまかせるだけです。

at 16:07, 不死川 浄, -

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自分の葬式をする

 「仏法を聞くことは、生きているうちに自分の葬式をすることです」ということを聞きました。これは世間でいう生前葬ではありません。仏法を聞き、信心をいただくということは、阿弥陀さまの心をいただくということです。阿弥陀さまの心をいただくということは、無量寿のいのち、永遠のいのち、死なないいのちをいただくことです。それは信心がおこった時に、娑婆のいのちが死んでしまったということです。後生の一大事の解決であり、死ぬことが不安でなくなります。そのことを「生きているうちに自分の葬式をする」と言われているのです。浅原才市さんは「わたしゃ臨終すんで葬式すんで、みやこ(浄土)に心住ませてもろうてナンマンダブツと浮世におるよ」と述べられています。生きているときに仏法を聞き、信心をいただき、自分の葬式をした人は、娑婆の縁尽きた時、死なないのです。生まれるのです。往き生まれるのです。往生して仏にならせていただくのです。これほど大きなご利益はありません。「必ずあなたを救い仏にする」という阿弥陀さまの声を素直に聞いていきましょう。

at 16:51, 不死川 浄, -

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喚(よ)びさます

 人間とは愚かな存在です。縁次第で何を思い何をするかわかりません。死ぬまで自我・我執の無くならない罪悪深重の凡夫です。たとえ信心をいただいても凡夫であることに変わりはありません。それ故に如来はみ名「南無阿弥陀仏」となり、いつも私たちを喚びさましてくださっているのです。念仏を称えることを称名といいますが、称名とは私の口からみ名を称えることですが、み名を称えることはそのまま如来の願いを聞くことであります。称名とは、み名を聞くことであります。称名とは心を集中して一生懸命に数多く称えることに価値があるのではなく、み名を称えることにより、いつも私を喚びさましてくださる如来の願いを聞くことなのです。常に自我中心に生き、思い通りにならなかったらすぐに怒りや腹立ちの心を起こし、真実を見失っている私を喚びさまして下さっているのです。命尽きるまで、み名を称え、み名を聞き、真実の道である浄土への道を歩ませていただくのです。死ぬまで仏さまに導かれ育てられる「育ちざかりの人生」を生きるのです。

at 14:34, 不死川 浄, -

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この世に生まれて

 私たちは不思議なご縁でこの世に生まれてきました。「人身受け難くして、いますでに受く」です。この世に生まれたのは自分の意志ではありません。気がつけば生まれていたのです。男として女として、この時代に、この地域に、親を縁として、もって生まれたものはみな違って生まれてきました。そして老少不定で順番はありませんし、死の縁無量でどんな死に方をするかわかりませんが、必ず命終えていきます。ただ一回限りの人生です。人から見れば取るに足らないささやかな生涯であっても、私にとっては二度と繰り返すことのない、かけがえのない大切な人生です。ほとんどの人は優れた功績や名前を残すことなく死んでいき、「去る者は日日に疎し」ということわざにあるように、いつしか忘れられていく存在です。 だからこそ、この人生に「豊かな生命の充実」が欲しいのです。 短い人生であっても、悲しいことや辛いことが多い人生であっても、私にとってこの人生は、「良い人生であった、ありがたい人生であった」と、合掌して命終えていけるような、豊かな生命の充実が欲しいのです。それには聞かねばならないものを聞かせたいただくのです。遇うべきものに遇わせていただくのです。「仏法聞き難くしていますでに聞く」といわれるように、聞き難い仏法に遇うことにより、この世に生まれた意味を知らせていただくのです。苦労の絶えない、ささやかな生涯であっても、この世に私として生まれてきて本当に良かったと心から言える人生を送りたいものです。

at 12:16, 不死川 浄, -

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根無し草

 根無し草とは、地中に根を張らず、水に浮いている草、浮き草のことですが、浮き草のように漂って確かな依りどころのない生活の例えとして言われます。人間はもともと根無し草のように確かな根を持っていないのです。心も言葉一つで喜んだり、悲しんだり、怒ったりコロコロしています。縁ひとつ状況次第で不安になったり、思い上がったり、人を責めたりフラフラしています。強い意志を持ち決して変わることはないと思っていても、不幸が続くとどう揺らぐかわかりません。仏法を聞くとは、揺れる心を揺れないようにするのではありません。不安をなくす教えではありません。何故私たちは、縁次第で動揺したり、不安になるかを、その由来を明らかにしてくださっているのです。私たちは自我中心に生き、確かないのちの根を持っていない存在であり、どんなに頑張っても人間は縁次第で動揺したり、不安になるものだと気づかせ、「揺れたっていいんだよ、不安になっていいんだよ、それは風にまかせておればいいんだよ」と教えてくださっているのです。阿弥陀如来はその人間の器量を見抜き、念仏となり「私があなたの根となり、どんな状況になっても支えます。決して見捨てません」といつもよびかけてくださっているのです。「根さえしっかりしていれば、枝や葉は揺れたっていい、風にまかせておればいい」です。念仏とは私たちのいのちの根となるのです。

at 20:17, 不死川 浄, -

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コロナ禍を活かす

 このたびのコロナ禍をどう受け止め、どう活かしていくべきか、私たち一人一人に問われています。まず与えられた事実は受け止めなければならない。生きていればいろいろなご縁に遇います。良いことも悪いことも与えられたご縁です。その積み重ねが今の私であり、いまの社会です。与えられたご縁をどう活かし対応するかによって人間も社会も築かれていきます。新型コロナウイルスの大流行は世界中に大きな打撃を与えていますが、この危機は、これから人類がどう生きていくべきかを問うチャンスでもあります。ノーベル平和賞を受賞されたバングラデシュのムハマド・ユヌス氏は「新型コロナは突然、世界の文脈と計算式を変え、存在しなかった大胆な可能性の扉を開いた。私たちはまっさらな白紙の状態に戻り、どんな方向へも行ける。信じられないほど自由に、未来を選択できるのだ」と述べられています。これからどういう社会を築いていくべきか。貧富の差がなく安心して生活するにはどういう経済制度がいいのか、どのようにコロナと共存し自然環境を守っていくのか、自他ともに心豊かに生きていくことの社会を実現するにはどう生きるべきかを、コロナ禍が教えてくれている気がします。一人一人がきちんと向き合い、これからどう生きるべきかを問うていきたいです。

at 18:04, 不死川 浄, -

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変化に対応する

 まだまだ新型コロナウイルスの感染で自粛が続いていますが、この時は次のステップの充電期間です。しっかり充電してください。ダウィンの『進化論』に「強いものが生き残れるのではない、賢いものが生き残れるのではない、変化に対応できるものが生き残れるのだ」とあります。この世は無常です。毎日刻々と変化しています。小さい変化ならすぐに対応できても、日常生活が変化するような大きな変化にはなかなか対応が難しいです。対応ができなければ愚痴や腹立ちや諦めや失望で終わります。変化に対応できる力を身に着けてもらいたいです。ピンチをチャンスにできる力です。「根さえしっかりしていれば、枝や葉は揺れたっていいじゃないか、風にまかせたおればいい」(相田みつを)とあります。変化に対応できるには生きる土台・根・要・支えがしっかりしてなくてはなりません。生きる土台や根っこがしっかりしていれば、枝や葉が大きく揺れても倒れないように、事実を受け止めてこれからの人生に向けて対応できます。念仏に遇うということは、阿弥陀如来が「私があなたの生きる大地となります。どんな状況になろうともあなたをしっかり支えますから、仏の大地に樹(た)ってしっかり生きてください」とよび続けて下さっているのです。

at 15:23, 不死川 浄, -

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